吉田松陰・外伝   その8
弔葬・追慕の譜
*[3]*
 飯田・尾寺らは、十一月十七日、改めて松陰の埋葬地に六尺余もある、回向院
墓地の中でも最も大きい墓碑を建立する。そして墓碑正面中央に松陰の遺言に従
って「松陰二十一回猛士」と大きく刻み、その右に「安政己未(つちのとみ)十
月念七日死」、左には「吉田寅次郎行年三十歳」と彫らせた。彼らは、さらに碑
の右側面に辞世の漢詩、左側面に辞世の和歌を彫り込む予定であったが、当時は
幕府に対して遠慮しなければならない状況にあったため、この詩と和歌について
は、いくらかほとぼりのさめる翌春までおくこととした。これら埋葬や碑の建立
に要した経費二十余両は、周布政之助らの計らいで藩から公金が支出された。
 しかし、安政の大獄の余韻消えやらぬ中で、罪人として処刑された者が堂々と
顕彰されることを良しとしない幕府が、回向院内にある志士の墓碑の取り壊しを
命じたため、この門下生たちの思いを込めた松陰の墓碑も取り除かれ、今日その
姿を見ることはできない。
 そして四年後の文久二年(1862年)八月、長州藩世子毛利定広(のちの毛
利元徳)が働きかけて朝廷を動かし、朝廷の使者大原三位重徳卿とともに、国事
に尽くして罪を得た人たちの復権を認めるようとの天皇の意向を幕府に伝え、そ
の結果、松陰らの墓碑再建が許され、久坂玄瑞らは早速にこれを再建した。その
碑銘は久坂の揮毫(ごう)したものであり、今日も回向院墓地に見られるが、墓
石そのものは当初建てられた巨大なものとは異なり、他の墓石と同じ程度のつま
しやかなものである。
 一方、国元の萩では、去る安政六年の十月十七日に江戸をたって、十一月十六
日に帰着した高杉晋作を待っていたのは、松陰処刑の悲報であった。高杉は、江
戸の周布政之助にあてて「ついに吾師松陰は幕吏の手により殺され候。小生は松
陰の弟子として、必ずこの敵を討たずにはおかぬつもりに御座候」と、悲憤の手
紙を書き送る。そして十一月二十七日、久坂玄瑞らと師・松陰の霊を弔った。
 さらに年が明けて万延元年(1860年)二月七日が松陰の死後百日目に当た
るところから、生家の杉家では百日祭を営み、護国山団子巖の吉田家墓地に遺髪
を埋葬することにした。このため、久坂・高杉をはじめ門下生十人ばかりが集ま
って墓碑の建設計画に着手。墓碑は百日祭よりわずかに遅れて同二月の十五日に
完成。自然石の表に、これも松陰の遺言を守って「松陰二十一回猛士墓」、裏に
「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と彫
られている。また、墓前には門下生たちの名を刻んだ一対の石灯篭(ろう)や花
立て・水盤なども寄進された。
 ちなみに、この「吉田松陰墓ならびに墓所」は、昭和四十七年二月九日、萩市
によって史跡に指定され、地域内には養父吉田大助、同妻くま、ひ孫吉田庫三、
妹杉艶子、杉小三郎、門弟高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・阿座上正蔵・馬島誠
一郎(甫仙)・口羽良純(寿次郎)らの墓や、親せき杉家・玉木家・児玉家・久
坂家などの墓もたち並んで、一つの聖地となっている。
 墓碑の完成はともあれ、二月七日の松陰百日祭には、久坂・高杉のほか中谷正
亮、久保清太郎、佐世八十郎(前原一誠)、作間忠三郎(寺島忠三郎)、品川弥
二郎、松浦松洞、時山直八、玉木彦介、山田市之充(顕義)など多数の門下生が
参列、まな弟子の入江九一・野村和作(靖)兄弟は、松陰の伏見要駕策に協力し
た罪により、なお獄中にあった。