吉田松陰・外伝   その7
弔葬・追慕の譜
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 松陰が幕府の宣告を待たずしてすでに死を覚悟していたことは、これまでにも
述べたように多くのことが証明しているが、十月二十日には、江戸に来ていた門
下生の飯田正伯(しょうはく)と尾寺新之丞にあてて手紙を出し、自分の首の埋
葬や死後の処置などを依頼していた。
 その尾寺が、十月二十六日の夜、藩の執政・周布政之助から藩邸に呼び出され、
翌朝、評定所において松陰の判決があることを知らされる。尾寺は翌日早朝、飯
田と評定所に同道、判決の様子を知ろうとするが、松陰がすでに判決を受けて伝
馬町獄舎に戻ったことを聞き、急いで伝馬町に行き、獄卒の金六に尋ねたところ、
松陰が四ツ時、すなわち午前十時に処刑されたことを知らされる。
 二人は、悲しみと無念の思いの中に、まず依頼されていた遺骸(がい)の処置
をと、金六に金を渡して牢(ろう)役人から遺骸を下げ渡してもらうようにとり
なしを頼むが、牢役人が決まりを盾に承知しない。そこで屍(し)体を人手に渡
さぬようによく頼んでいったん引きあげ、翌日再び金六を通じて嘆願したが、や
はり許されない。
 ついに二十九日、飯田自身が牢役人に面会して直接懇願した結果、ようやく役
人も承諾して「牢の中で死体の処分に困っている」という名目で「今日の午下(
ひるさが)りに小塚原(こづかっぱら)の回向院(えこういん)に運んで、そこ
で渡そう」ということになる。飯田と尾寺の二人は早速、桜田にある藩邸長州藩
上屋敷に行き、桂小五郎と伊藤利輔(博文)にそのことを告げ、その足で、大甕
(かめ)と大石とを買って回向院に向かう。
 その足で、というが、今日の地名でいうと、幕府評定所が千代田区丸の内一丁
目、伝馬町獄舎が中央区日本橋小伝馬町一丁目(十思公園)、桜田藩邸が千代田
区霞ケ関桜田門前、東京地裁・法務省などがある一帯、そして小塚原回向院が荒
川区南千住五丁目であることを考えれば、これらの間を行き来することはかなり
の距離になる。飯田・尾寺の二人は師・松陰の遺骸を引き取るために、この三日
間、江戸の町や町はずれを必死に走り回ったのである。
 二人が回向院に着いたとき、桂と伊藤のふたりはすでに来ていて、やがて松陰
の死体を入れた四斗樽(たる)が牢役人から渡された。四人が蓋(ふた)を開け
て見ると、顔色はなお生きているときのようにほんのりと赤みをおびていたが、
髪は乱れて顔にかかり、血が流れ出してむごたらしいありさまであった。特に、
その身体が素裸のままであったことが、より激しい怒りを四人の心に刻みつけた。
 飯田がまず髪を束ね、桂と尾寺が手酌で水をかけて血を洗い落とし、切られた
首を胴につけようとすると、「重罪人の屍(しかばね)は他日検視があるかも知
れぬので、首をついだことがわかると拙者等が罰を受けねばならない。そのまま
にして置いてもらいたい」と、役人がそれをとめた。四人は仕方なくその言葉に
従い、せめてもと、飯田が黒羽二重(くろはぶたえ)の下着を、桂が襦袢(じゅ
ばん)を脱いで松陰の体に着せ、伊藤が自分の帯をといて結んでやる。その遺体
の上に首を重ねて持参の甕に納め、回向院墓地の一画、松陰よりも半年前に処刑
されて葬られていた橋本左内の墓の左隣に埋葬し、その上に求めて来た大石を据
えて仮の墓標としたのである。