吉田松陰・外伝   その6
弔葬・追慕の譜
*[1]*
 「生きてなお不朽の見こみあらば…」と語った松陰としては、あえて自ら死を
求めたわけではなかったが、結果的に、幕府が主導権を持った死というよりは、
むしろ松陰自らが主導権をもった死といった感すらある。
 死後への思いを託し終わった松陰自身にとっては、処刑そのものはもはや一つ
の儀式にすぎなかった。だが、われわれが封建時代を語るとき、その儀式たる死
にざまに武士道の証(あかし)をみる傾向がある。それだけに、松陰の死にざま
についても、後世何かと話題になってきた。
 それというのも、世古格太郎という人物の『唱義聞見録(しょうぎぶんけんろ
く)』の一書に「吉田もこの死刑に処せられるべしとは思わざりしにや、彼縛る
時まことに気息荒く切歯し、口角泡を出す如く、実に無念の顔色なりき」とある
ことから、松陰を過小に評価する輩(やから)によって、いかにも松陰が死の宣
告に対して取り乱し、宣告に反抗したかのように語られることもあったからであ
る。
 『留魂録』を書き残した松陰が、もちろんそうした取り乱した姿を見せなかっ
たことについては、他に信頼し得る証言がある。例えば、八丁堀同心・吉本平三
郎から聞いた話として、佐倉藩士依田学海(よだがくかい)が十一月八日の日記
の項に次のように書き残している。
 「過ぎし日、死罪を命じられし吉田寅二(次)郎の動止には感泣したり。奉行、
死罪のよしを読み聞かせし後、畏(かしこま)り候よし恭敷(うやうやし)く御
答申して、平日庁に出ずる時に介添せる吏人に久しく労をかけ候よしを言葉やさ
しくのべ、さて死刑にのぞみて鼻をかみ候わんとて心静かに用意してうたれける
となり。およそ死刑に処せらるるものこれまで多しといえども、かくまで従容た
るは見ず。多くは命をよみ聞かせらるる時、上気して面赤く、刑場に赴く時は腰
立たず、左右より手をとり行くに、踵(かかと)、地につく事なし」
 また、松村介石という人も大正十三年(1924年)に刊行された雑誌「東洋
文化」第一号に、首斬り役人・山田朝右衛門から聞いた話として次のような一文
を寄せている。
 「松陰の首を斬った当の本人(山田)は、先年まで居って、四谷に居った。そ
の人の話によると、いよいよ首を斬る刹那(せつな)の松陰の態度は実にあっぱ
れなものであったということである。悠々として歩を進んできて、役人共に一揖
(いちゆう・ちょっとおじぎをすること)し、『御苦労様』と言って端座した。
その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」
 山田朝右衛門とは、代々その名を継いで処刑の刀を振るう有名な刑吏(けいり)
「首斬り朝右衛門」のことであり、その人が、それまで首をはねた大勢の死刑囚
のなかでも、最も立派な態度であったというのである。
 先にふれた「取り乱して反抗した」という世古説は、死刑宣告を受けた松陰が
辞世の詩を朗々と吟じ、粛然襟を正してこれに聞き入った幕吏たちが、朗誦終わ
りわれにかえって狼狽(ろうばい)、慌てて評定所の門から追い立てるように駕
篭(かご)に入れる姿をみて勘違いした印象を語ったものであろうといわれてい
る。
 「死に存在感がある」といえば、いささか奇妙な表現になってしまうが、松陰
の死は虚構をもって飾りたてるまでもなく、強烈なインパクトを持っている。松
陰は、己の死そのものを一つの垂訓として門下生たちの心に刻み込んで逝くので
ある。