吉田松陰・外伝   その5
留魂録に託するもの
*[5]*
 松陰が処刑されて十七年の歳月が過ぎた明治九年(1876年)のある日、当
時、神奈川県権県令(今日でいう副知事)であった野村靖(旧名和作、入江杉蔵
の実弟)のもとに一人の老人が現れ、
 「私は長州藩の烈士吉田先生の同獄囚沼崎吉五郎いう者ですが」と名乗り、い
きなり、小さく折りたたんだ跡の残る、変色して垢(あか)じみた一通の書き物
を差し出した。野村がこれを手に取ってみると、明らかに師・松陰の筆跡と知ら
れる「留魂録」であった。
 驚いて事情を問うたところ、松陰は殉難前に同じ書を二通作って、その一通を、
当時同囚で牢(ろう)名主であった沼崎に「自分は別に一通同じ書を郷里に送る
けれども、それが無事に着くかどうか危ぶまれるので、これを貴殿に預けるから、
出獄したらこの遺書を長州人に渡してもらいたい。長州の人は私をよく知ってい
ると思うから、長州人ならだれでもよい」と頼まれ、野村が長州出身と聞いて、
この日やっと持ってきたのだということが分かった。
 松陰は、遺書が司獄官の手で没収され、門下生たちの手に渡らないのではない
かと心配し、同文のものを作成して一通を沼崎に持っておくよう託したのである。
この周到な処置をみても、松陰の「留魂録」に対する思い入れの深さがうかがわ
れるのである。
 遺書についての松陰の心配も、幸い単なる危惧(きぐ)に終わって、一通の遺
書が、松陰の遺品とともに門下生の手に渡り、彼らの間で回し読みされ、若者の
心に討幕への炎を燃えたたせることになった。門弟たちは、悲しみと怒りをもっ
てこの遺書を読み、またこれを書き写して回覧した。今日、書き写したもの四通
が確認されているという。ところが、門弟同志の手から手へと渡っていくうちに、
いつしか原本の「留魂録」が所在不明になってしまったのである。
 一方、沼崎は松陰の依頼にこたえ、獄中はもとより、その後、三宅島に流罪と
なってからも肌身離さず、これを守り抜く。
 その彼が許されて帰ってきたのは明治七年(1874年)のことで、すでに維
新回天の大業は成り、世情も一変していた。そして明治九年、この遺書が、もう
一つの書「諸友に語(つ)ぐる書」と一緒に長州人の手に渡されたのである。
現在、萩の松陰神社資料展示館に所蔵されている「留魂録」こそ、ほかならぬ沼
崎が十七年間にわたって守り抜いてきた一通なのである。
 その内容もさることながら、死を目前に見据えた松陰の息遣いが感じられるよ
うな筆致に、今日接することができるのも、ひとえに沼崎なる人物の誠実さによ
るものであるが、遺書を手渡して飄(ひょう)然と去って行った彼のその後の消
息は明らかでない。
 松陰は死後なお多くの影響を与え、教師たる役割を果たしていくのであるが、
彼の鮮烈な生きざまとその志は、まさにこの「留魂録」をもって見事に完結をみ
たというべきであろうが、彼がいうところの三十年の四季の循環がもたらした美
しい結実であった。
 幸いなことに、ごく最近の十月末、徳間書店から古川薫氏の現代語訳と解説に
よるところの「吉田松陰・留魂録」が刊行され、手近にその内容にふれることが
できる。吉田松陰を知るためには必読の一書であろう。