吉田松陰・外伝   その4
留魂録に託するもの
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 松陰は最後まで教育者であった。遺書であるこの「留魂録」においても、教育
機関の創設を訴えているのである。
 松陰は第十章において、さきにふれた堀江克之助の意見を紹介し、これについ
て松陰自身の意見を加え、後事を門下生の入江杉蔵(九一)に託している。その
内容は次のようなものである。
 「堀江は、常に神道をあがめ、天皇を尊び、大道を天下に明白にして、正統で
ない学説や宗教あるいは邪説を排除したいと願っている。それには朝廷から教書
を出版して、広く天下に配布するのが一番よいのではないかと考えている。私と
しては、教書を出版するのに一つの方法があると思う。即ち、京都に大学校を創
立し、朝廷の学風を天下に示し、また天下の優れた才能、人材を京都に集め、彼
らに天下古今の正論、確固たる議論を編集させて本をつくり、これを朝廷で教習
ののち天下に配布すれば、人心はおのずから定まるであろう。私がかねてから入
江杉蔵とひそかに協議していた尊攘堂創設のこととあわせて堀江に相談し、この
計画の実行を杉蔵に頼むことに決めた。杉蔵がよく同志とはかり、内外に協力を
訴えて実現の端緒をつかむならば、私が志したことも無駄にはならなかったとい
うことができよう。昨年、勅諚(ちょくじょう・みことのりのこと)や綸旨(り
んし・天皇に近侍する蔵人役の人が勅旨を受けて紙に書いて出した文書のこと)
を求めようとした企ては失敗し挫折してしまったが、尊王攘夷の運動は決してや
めるべきではないから、しかるべき方法を考え、先人の志を受け継いでいかなけ
ればならない。そのためにも京都に大学校を創設するというのは優れた案ではあ
るまいか」
 ここにいう尊攘堂の議については、松陰が「留魂録」の筆を起こした五日前の
十月二十日、国元萩の岩倉獄にいる入江杉蔵あてに、「兼て御相談申し置き候尊
攘堂の事、僕は彌々(いよいよ)念を絶ち候。此の上は足下兄弟(杉蔵と和作の
ちに内務大臣になった野村靖のこと)の内一人は是非僕が志成就致し呉れられ候
事と頼母敷く存じ候」に始まる長文の手紙を書き送っている。
 松陰は、尊攘堂を、尊王攘夷に尽くした先人先賢の遺墨遺品を収集顕彰し、後
進の士に感奮興起をうながすと同時に、一大教学の場とすべく考えていたようで、
手紙の中で「尊攘堂の事は中々大業にて速成を求めては却って大成出来申さず」
と書いている。それには、まず親王公卿より下級武士さらには民一般にいたるま
で、身分に関係なく天下の有志の者が入寮寄宿して学習研さんに励めるような大
学校を興し、天下の人心を高めることが必要であるといい、ただし急に大学校を
興すといっては、当今の状況からだれしもそんなことは無理だということになっ
てしまう。そこで考えられるのは、一定の日には町人農民までが自由に講義を聴
聞することのできる制度を持つ学習院を一層興隆発展させ、ここにも先賢の神牌
(はい)を置き、あわせて院中に史局を設け古書・近世書にいたるまで天下有用
の書籍を集めて人々の用に供したらよかろうという。松陰は今日の図書館的機能
までも考えていたようである。
 この松陰の志は、入江が四年後に没したため、のち品川弥二郎によって京都の
尊攘堂(現、京都大学付属)が建立され、さらに下関市長府の地に長門尊攘堂(
現、市立長府博物館)の誕生となるのである。