吉田松陰・外伝   その3
留魂録に託するもの
*[3]*
 獄中にあって同囚の人々と心を交わせる松陰の姿勢は、すでに野山獄において
みられたところであるが、伝馬町の獄においても、また松陰は多くの同囚に心を
寄せ、その人々の美点をとらえて己の糧とするのである。いかなる逆境にあって
も己を磨くことを怠らぬ松陰の真骨頂がそこにある。
 しかし、いかに優れた人物を見いだしたとしても、松陰の生命はもはや限られ
ている。そうした志士たちと交わる時間もない。そのため、松陰は「吾が同志た
らん者願はくは交を結べかし」と、その新しく知った人々を同志に告げ、交流を
うながすのである。それも、第十三章に「余徒(いたず)らに書するに非ず。天
下の事を成すは天下有志の士と志を通ずるに非ざれば得ず。而して右数人、余此
の回新たに得る所の人なるを以て、是れを同志に告示するなり」と書いているよ
うに、松陰はこの時点で、より大いなる連帯の必要性を痛感していたからである。
 松陰が第九章から第十三章に及んで新たに得るところの人としてあげている人
物は、水戸の郷士・堀江克之助、水戸藩士・鮎沢伊太夫、鷹司家の諸太夫・小林
民部、江戸の医者・山口三黝(さんゆう)、高松藩士・長谷川宗右衛門、江戸の
人・勝野豊作(正道)・保三郎親子などで、それぞれに松陰の心をとらえた言動
が紹介されている。例えば長谷川宗右衛門の場合など、
 「予初めて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す、法、隻語を交ふる(
囚人同士が言葉を交わすこと)ことを得ず。翁独語するものの如くして曰く、『
寧ろ玉となりて砕くるとも、瓦となりて全かるなかれ』と。吾れ甚だ其の意に感
ず。同志其れ之れを察せよ」
 といった風にである。
 ちなみに、この長谷川宗右衛門が言った「寧ろ玉となりて…」の言葉は、後に
高杉晋作が元治元年(1864年)の一月初め、某あてに書いた手紙の中の「君
の為めつくす心は玉となしたく、我が身は瓦なりけり」の句にもつながるもので
はなかろうか。高杉の心の中に、師・松陰が留魂録に託した魂が生き続けていた
のである。
 さらに松陰は第十四章において、すでに十月七日に処刑された橋本左内(越前
福井藩の藩医で洋学にも通じ、当時諸藩の志士の中でも異彩を放つ存在であった)
のことにふれ、同囚の勝野保三郎(伝馬町獄舎で左内と同室であったことがある)
から左内の話を聞くにつけても、一度も会う機会がなかったことを残念がって次
のように書いている。
 「左内幽囚邸居中、資治通鑑(中国周の歴代君臣の事跡を編年体で編集した史
書)を読み、註を作り漢記(漢の高祖から王莽にいたる二百四十三年間のことを
述べた史書)を終る(三十巻を読破する)。又獄中数学工作等の事を論ぜし由、
勝保(勝野保三郎)予が為めに是れを語る。獄の論大いに吾が意を得たり。予益
益左内を起して(生きかえらせて)一議を発せん(議論をする)ことを思ふ。嗟
夫(ああ)」
 橋本左内もまた安政の大獄の嵐(あらし)に二十六歳という若い生命を奪い去
られたのである。
 松陰は、このように新知の人々を同志に伝えると同時に、村塾のことや自分の
門弟たち、さらには僧・月性や口羽徳祐など長州藩における有為な人物のことを
同囚の人々に伝え残しているのである。