吉田松陰・外伝   その1
留魂録に託するもの
*[1]*
 人が死に際して語る言葉は、ある意味でその人の人生の集約である。松陰が処
刑を目前にして書き上げた「留魂録」も、また三十年の生涯の総決算であり、日
本人が書いたものとして最高の遺書であるとも言われている。
 その内容は、理路整然とした文脈をもって、訴える調子で諄々(じゅんじゅん)
と説き諭(さと)す姿勢で一貫し、精神の動揺を感じさせるものはなく、まさに
見事というほかはない。
 十五章、全文五千字に及ぶこの留魂録は「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留
(とどめ)置かまし大和魂 十月念五日(二十五日のこと)、二十一回猛士」と
いう歌一首によって始まる。ここにいう「大和魂」という言葉が戦時中、皇国史
観的な立場からさまざまに利用されたため、いささか手あかに汚れた感があるが、
これを己の正しいと信ずるところを誠をもって一直線に貫き通した強靭(じん)
なる精神の結晶とみる時、先に肉親にあてた「永訣の書」の冒頭に記した「親思
う心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」の歌とともに、松陰の心情が集約
された絶唱というべきであろう。
 そして、第一章は「余去年己来心蹟百変、挙げて数へ難し」と、猛を発してさ
まざまに試行錯誤した自分をまず振り返り、至誠は必ず人を動かすということを
信念としてこれまで努力をしてきたけれど、ついに事をなすこともなく今日に至
ったのは私に徳が薄かったためで、今はだれも恨むこともないと平静な心境を語
っている。
 次いで第二章から第七章までは、評定所における取り調べの経過を語り、その
折々における自分の心境や感じたことを述べている。松陰は極めて冷静に過程を
分析し「然れども十六日の口書、三奉行の権詐(けんさ・偽り、たくらみのこと)、
吾れを死地に措かんとするを知りてより更に生を幸(ねが)ふの心なし。是れ亦
平生学問の得力然るなり」と第七章を結んでいる。
 「三奉行の権詐」というのは、松陰が心を込めて述べた対外的な応接の問題や
航海雄略の策など、まるで口上書に取り上げず、間部老中迎撃策について、諌(
かん)言が取り上げられない時は間部と刺し違えて死に、護衛の者がこれを防ご
うとすれば切り払うつもりだったなどと、松陰が言いもしないことを記載し、罪
に陥れようとしたという点を大いに不満としたものである。松陰は第六章におい
ても、この点にこだわり「今日義卿(松陰のこと)奸権の為めに死す、天地神明
照鑑上にあり、何惜しむことあらん」と書いている。
 また第三章では、法廷(評定所)における自分の態度についても語っている。
 自分は性格が激しく怒りやすいので、その点に注意し、役人に対しては努めて
穏やかに対応するように心掛け、時局柄、幕府の立場も理解できるとした上で、
今日取るべき適当な処置はどうあるべきかを述べるようにした。それゆえ、幕吏
もさすがに私を怒罵(どば・怒りののしること)することはなかったが、結局、
卑賤(せん)の身で国家の大事を議することは不届きだという。そのことにも異
議はあったがあえて論じず、「是れを以て罪を獲るは万々辞せざる所なり」とだ
け答えておいた。そうした態度がよかったか悪かったかは棺(ひつぎ)の蓋(ふ
た)を覆った後に歴史の判断にゆだねるしかないであろう、というのである。冷
静な法廷闘争を願った松陰の気持ちが言外に語られている。