吉田松陰      その66
生と死のはざまに
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 十月二十日、肉親への「永訣の書」を書いたということは、松陰がはっきりと
死を覚悟したことを意味する。同じころ、門弟たちへの辞世の書というべき「諸
友に語(つ)ぐる書」も書いている。さらに二十五日から、門弟たちに後事を託
す「留魂録」の執筆にかかり、これを書きあげたのは翌二十六日の夕方であった。
この遺書は、薄葉半紙を四つ折りにして十九面にびっしりと細字で書き込まれ、
内容は十五章からなり、実に五千字に及ぶものである。終始理論整然とした論旨
と見事な文章は、松陰がいかに己の死を冷静に受けとめていたかをうかがわせる。
 そして、いよいよ二十七日の朝、評定所への呼び出しがあり、裁断の宣告は覚
悟していた通り死刑であった。幕府の断罪書は、異国船へ乗り込む科(とが)で
蟄(ちっ)居を申しつけられたことから説き起こし、政治向きにかかわる国家の
重要事を何かと論じた著述をし、などと述べた上で、
 「殊に墨夷(アメリカのこと)假條約御渡し相成り、御老中方御上京之れある
趣承り、右は外夷處置振りの儀と相察し、蟄居中の身分にあるとも下總守殿通行
の途中へ罷り出で御處置を相伺ひ、見込の趣申立て、若し御取用ひ之れなく自然
行はれざる次第に至るならば、其の節は一死殉国の心得を以て必死の覚悟を極め、
御同人御駕篭へ近寄り、自己の建議押立て申し度き杯、一旦存じ立つる段、国家
の御為めを存じ仕り成す旨は申立つるなれども、公儀を憚(はばか)らざる不敬
の至り、殊に右体蟄居中の身分梅田源次郎へ面会等いたす段、旁々(かたがた)
不届に付き死罪申付くる」
 というものであった。
 長州藩公用人として判決に立ちあった小幡高政の証言によると、松陰は評定所
のくぐり戸を出るとき、
 吾今国のために死す
 死して君親にそむかず
 悠々天地の事
 鑑照明神にあり
 という辞世の詩を朗々と吟じたという。また、その時の様子を小幡は「時に幕
吏等なお座にあり、粛然襟を正してこれを聞く。肺肝をえぐられる思いあり。護
卒また傍より制止するを忘れたるものの如く、朗誦終りてわれにかえり、狼狽(
ろうばい)して駕篭に入らしめ、伝馬町の獄に急ぐ」
 と伝えている。
 松陰は、いったん獄舎に連れ帰られるが、そこで再び大声で辞世の歌を吟じ、
陰ながら同囚の人たちへの別れのあいさつとした。そして正午ごろ、同獄内の刑
場へと赴くのである。
 松陰は、刑執行の呼び出しの声を聞くや、懐紙に絶筆となった次の一首を書き
残して静かに席を立った。
 此程に思い定めし出立ハけ
 ふきくこそ嬉しかりける
この第四句「けふきくこそ」は明らかに字足らずであり、松陰もそのことに気付
きはしたが、それを正す時間的な余裕がなかったのであろう、四句の中の「く」
の字のそばに「ゝ」をうち添えたまま筆を置いている。
 誠を貫き、誠をもって幕吏を動かそうとしたために言わずもがなの間部老中要
撃策までも告白し、その結果、死罪ということになった。しかし、過ぐる日、「
吾が輩、皆に先駆けて死んで見せたら観望して起るものあらん」とまで思い詰め
たことのある松陰にとって、むしろ二十一回猛士たらんとした三十年の生涯の喜
ぶべき完結として認識されていたのではなかろうか。「嬉しかりける」の結句も、
決して強がりや詩的修辞ではなかったとみるべきであろう。
<おわり>