吉田松陰      その65
生と死のはざまに
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 死をかけた法廷闘争を心に期し、「生死を度外に措きて唯だ言うべきを言ふの
み」と死生観を語った松陰ではあったが、二度目からの訊(じん)問が十分な弁
論の機会も与えられぬままのあまりに簡略なものであったがゆえに、結果に対す
る状況判断も安易となり、かえって生死にこだわることになるのである。
 九月十二日付高杉あての手紙には「今月五日小生評定所御呼出し之れあり、御
吟味の模様にては軽典に處せらるる事と察せられ候」と書き送る。
 さらに、高杉に帰国命令が出たことを知って書き送った十月六日付の手紙では
「小生落着未だ知るべからず。然れども多分又々帰国ならんと人々申し候。果し
て然らば老兄(高杉)へ一事御相談申し度き事あり。右に付き小生身上落着まで
は老兄御再遊見合せ下さるべく候。帰国出来候はば国にて拝面すべし。若し又他
家預けにども相成り候はば老兄などへ御相談申す事之れなく候。追放になれば大
いに妙策あり。遠島なれば小林・鮎澤等の事周旋仕りたる人あり、其の手継きあ
れば苦心に及ばず。萬一首を取られ候はば天下の好男子、亦妙」と、いまだ余裕
がうかがわれる。
 そして十月八日の手紙では、遠島は仕方がないだろうという状況判断を伝えて
いる。
 しかし実情はそれほど楽観的なものではなく、井伊大老のもとには梁川星巖・
頼三樹三郎・池内大学・梅田雲浜らを反逆の四天王とし、他に長州の吉田松陰も
力量があり悪謀のはたらき抜群で徳川の天下を奪い取る計画を立てている者であ
るという情報が伝えられていた。大いに危険人物と目されていたのである。
 確かに、間部要撃の策も未遂であったため奉行の原案は流罪、島流しというこ
とであったが、井伊大老がこれを死罪に書き改めたという。
 これより先、九月二十七日には鵜飼吉左衛門をはじめとする水戸藩の志士たち
が、十月七日には橋本左内、頼三樹三郎らが処刑されている。楽観的であった松
陰も死罪を覚悟せざるを得なかった。
 十月十七日付尾寺新之丞あての手紙には、吟味役たちが寛容であったのは自分
をだますための計であり、最初から首を取るつもりであったに相違ない。取り調
べ中の口上書を読み聞かされ、一部は改めさせたが大勢の変わるものでもない。
鵜飼や頼・橋本などの名士と同じ死罪なれば自分としても本望である。法廷での
議論については不満な点も多いが、後世の人々に自分の志を知ってほしい、とい
った意味のことを述べている。
 そして十月二十日、肉親にあてて「平生の学問浅薄にして至誠天地を感恪(か
く)すること出来申さず、非常の変に立到り申し候。嘸々(さぞさぞ)御愁傷も
遊ばさるべく拝察仕り候。
 親思うこころにまさる親ご
 ころけふの音づれ何ときく
 らん
 さりながら……」
に始まる「永訣の書」を書き記すのである。
 この書にはまた、自分の首は江戸に葬り、家の方では赤間関(下関)廻浦の節
に買い求めて以後、十年余にわたって著述の助けとなって来た赤間硯(すずり)
と、昨年十一月六日に差しあげた書状をわが分身として祭ってほしい。墓には「
松陰二十一回猛士」とのみ刻んでもらいたい、という遺言も書き加えられていた。