吉田松陰      その64
生と死のはざまに
*[3]*
 松陰は、伝馬町の獄中にあって多くの手紙を書き送っている。中でも、ちょう
ど江戸にいた高杉晋作あての手紙は十三通に及ぶ。間部老中要撃策に関して時期
尚早と松陰の意に反したことから、いったんは絶交などと怒りを表したものの、
やはり高杉晋作をそれだけ信頼し、また彼に託すところが大きかったのであろう。
 それは、状況の報告、金銭の周旋、あるいは書籍文具の差し入れなどさまざま
な依頼であったが、高杉もまたこれによくこたえ、江戸在住の門弟の中でもひと
際熱心に獄中の師に尽くすのである。そうした二人の接近に危惧(ぐ)の念を抱
いた藩政府は、両人を引き離すべく高杉に対して帰国の命を下し、高杉は後ろ髪
を引かれる思いで十月十七日、江戸をたって帰国の途につくことになるのである。
 それにしても、松陰の手紙は師弟の強い絆(きずな)を感じさせるものであり、
その思うところを誠意をもって語りかけている。例えば七月中旬に書かれた高杉
あて書簡の中での死生観もその一つであり、かつて高杉が松陰に対して「男子の
死ぬべきところはどこか」という問いを発したことがあったのに対して、松陰は
次のように答えている。
 「貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬巳来、死の一字大いに発明あり、
李氏焚書(明の学者李卓吾の書)の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云は
ば、死は好むべきに非ず、亦悪(にく)むべきに非ず、道盡き心安んずる、便(
すなは)ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心
死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。又一種大才略ある人
辱(はじ)を忍びてことをなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸(ぬす)
むも妨げず。死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あら
ばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措(お)きて唯だ言うべきを
言ふのみ」
 死ぬことで不朽の意義を見いだせるのならばいつ死んでもよいし、なお生き続
けることによって大業を行う見込みがあるならば、生き永らえてその事を成すべ
きである。つまり人間というものは、生死を度外視して何かを成し遂げる心構え
こそが大切なのだと言うのである。この死生観は、松陰その人の生涯をいみじく
も語るものとなり、また危険を避けて逃避行や亡命を繰り返しながら、不朽の死
と見定めたとき果敢に挙兵(藩論統一のための功山寺決起)し、長州藩の討幕路
線を確定させた高杉の生きざまにも大いなる影響を感じさせるものである。
 さらに松陰は、同じ手紙の中で、温かい忠告を与えている。
 「先ず遊学済まし成され候はば、蓄妻就官等の事一(ひた)すら父母の御心に
任せられ、若し君側にでも御出でなれば深く精忠を盡し君心を得べし。然る後正
論正義を主張すべし。此の時必ず禍敗(かはい・思いがけない災いと失敗のこと)
を取るなり。禍敗の後、人を謝し学を修め一箇恬退(てんたい)の人となり給は
ば、十年の後必ず大忠を立つる日あらん。極々不幸にても一不朽人となるべし」
というのであるが、ここには親に不幸をし、性急に正義を述べた自らへの反省も
含まれているのであろうか。
 ともあれ松陰にとって今、門弟・同志に思いを託すことだけが生きている証(
あかし)であった。