吉田松陰      その63
生と死のはざまに
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 本来ならば評議所での尋問は、梅田雲浜との関係、御所内落文の件、そして松
陰門下でもあり、また梅田にも学んだ赤根武人とのかかわりで終わるべきもので
あったといわれている。しかし松陰自らが「寅死罪二つあり」と言い出したため
に、取り調べに当たっていた奉行たちはいったん取り調べを中止し、別室で協議
の後に、再び松陰を白洲に呼び出すことになったのである。
 松陰は高杉への手紙に「奉行三人皆其の人を知らず、一人は石谷因幡守ならん」
と書いているが、この時、取り調べに当たっていたのは寺社奉行松平伯耆(ほう
き)守、大目付久貝因幡(いなば)守、勘定奉行池田播磨(はりま)守、町奉行
石谷因幡守で、彼らは思いもかけぬ内容の発言に驚くと同時に態度も一変、取り
調べ再開後、
 「汝間部を詰(なじ)らんと欲す。間部聴かずんば将に之れを刃せんせしか」
 と語調鋭く迫り、松陰は、それについては具体的にどうするかという計画まで
は定めていなかったと、やや言い逃れ的な発言をするが、結局のところ、
 「汝が心誠に国の為にする。然れども間部は大官なり。汝之れを刃せんと欲す、
大胆も甚(はなはだ)し、覚悟しろ、吟味中揚屋(あげや)入りを申付くる」
 ということで、長州藩江戸屋敷預けの身から伝馬町の牢獄に入れられ、尋問が
続けられることになったのである。
 その後、松陰の取り調べは四度行われたが、もはやそれは形式的なもので、間
部老中を要撃する、すなわち待ち伏せして攻撃するという最初の自白が決定的な
意味を持った。
 この自白については、萩の藩政府に知られ、そのために再び野山獄に投じられ
たことから、幕府においてもすでに知っていることと思い、いっそ隠し立てをせ
ず、誠意をもってその意図を述べれば、それが大義に発するものであることを理
解してもらえ、幕府の反省をうながすことにもなろうという思案からのものであ
ったと考えられる。安政の大獄のあらしが吹き荒れようとしているとき、それは
あまりにも純粋な松陰の誤算でもあり、また状況判断の甘さとも言わざるを得な
い。
 ともあれ、この七月九日の時点で、松陰の心には死への覚悟と一縷(いちる)
の望みが相半ばしていたとみるべきであろう。高杉あて手紙の末尾には、
 「九日の吟味大略此の如し。只だ匆々中余が口陳僅(わず)かに十の四五にし
て、役人悉(ことごと)く書き留めもせす、孰(いず)れ後日委細の究明あらん。
委細に陳白せば、余か死後委細の口書(くちがき)天下に流伝すべし。其の節御
覧下さるべく候。〜中略〜今日の議論三あり。奉行若し聴を垂れて天下の大計当
今の急務を弁知し一二の措置を無さば、吾れ死して光あり。若し一二の措置をな
す能(あた)はずとも、吾が心赤を諄し一死を免(ゆる)せば吾れ生きて名あり。
若し又酷烈の措置に出で妄(みだ)りに親戚朋友に連及せば、吾れ言に忍びずと
も亦昇平(しょうへい・国運盛んで世が太平なこと)の情気を鼓舞するに足る。
皆妙」
 と述べているのである。