吉田松陰      その62
生と死のはざまに
*[1]*
 幕府評定所からの呼び出しで、松陰が最初の訊(じん)問を受けたのは七月九
日のことであった。この訊問の様子は、高杉晋作あての手紙に詳細に語られてい
る。それによると要点は二つで、第一は安政三年十二月に梅田源次郎(雲浜)が
長州へ下向した際にひそかに面会しているが、何を話し合ったのかということで
あり、第二は、御所内に落文(おとしぶみ)があり、その筆跡が松陰のものに似
ていると梅田雲浜などが言っているが、これについて覚えがあるかということで
あった。
 松陰はこれに対して、梅田が面会に来たのは、嘉永六年に江戸で会って以後、
長州の人ともいろいろ面識ができたので一度長州を訪ねたいと思ってやって来た
のだということで、禅を学べなど学問的な話をしたにすぎない。もともと梅田は
尊大な性格で他人を見下すところがあり、私はその人柄が好きでなく、彼と行動
を共にする気は全くないと答えている。
 また落文の件については、私は狂夫の言・時勢論・大義を議すなど忌諱(きき)
に触れるようなものを少なからず書いているので、これを他人が持ち去って御所
内に投じればいざ知らず、自分でそのようなことはしない。しかもその間は幽囚
の身で、隣家にさえ行っていないことは萩中の人が知っていることである。他人
にさせるような卑怯(ひきょう)なまねもしないし、やるなら自分で堂々と事を
行なうと主張。さらに落文というけれど一体どういう内容で、どのような紙に書
かれたものなのかと、逆に問い正す。
 このため奉行が落文の数行を読み聞かせ、紙は竪(たて)の継立紙(つぎたて
がみ)であると答えたのに対して、松陰は、私はいつも藍(あい)色の罫(けい)
を引いた紙に楷書(かいしょ)で書くので、それ以外ならば私のものではない。
「非なり非なり」と強く否定する。
 以上で終わるならば、幕府も松陰にさしたる罪状を認めるわけにいかなかった
であろうが、その後の松陰の申し立てが彼の運命を決することになる。松陰は、
私は梅田などと行動を共にしようとは思わない。私は私でもっと別のことを行な
ってきたと述べる。その後の様子は、高杉への手紙によると次の通りである。
 「奉行亦耳を傾けて曰く、『是れ鞫問(きくもん・罪を問いただすこと)の及
ぶ所に非ざるなり。然れども汝一箇の心赤(赤心・まごころのこと)、汝の為め
に細かに聴かん、縷述を厭(いと)はざるなり』と。余乃ち感謝再拝し、因って
応接書(外国との外交文書)を諳誦し逐一弁駁(べんばく・相手の意見を攻撃す
ること)す。奉行色を動かして曰く、『汝蟄居し国事を詳知するは怪しむべきな
り』。余曰く、『寅(松陰のこと)の親戚読書憂国の者三数人あり、常に寅の志
に感じ、寅の為めに百方探索し以て報知を致す。是れ寅の国事を知る所以なり。
寅死罪二あり、皆當に自主すべし。但だ他人に連及する心甚だ之れを惧(おそ)
る、敢へて陳ぜざるなり』、奉行温慰して曰く、『是れ大罪なきなり、之れを陳
ずるを妨げず』。余謂へらく、奉行亦人心あり、吾れ欺かるるも可なりと」
 “奉行人心あり”と純粋に受け取った松陰は意を強くして、大原三位卿西下策、
間部要撃策などを述べ、後日委細に究明ということになり、伝馬町の獄舎に下さ
れるのである。