吉田松陰      その61
東送留別の言の葉
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 松陰が、いよいよ江戸に送られる時が来た。五月二十四日、藩から父・杉百合
之助に対して護送役に松陰の身柄を引き渡すようにという命令書が届く。松陰は
獄中にあるわけだが、父からの借牢(ろう)願による投獄という建前上、一応こ
うした形式がとられたわけである。
 その夜、松陰は獄から自宅に帰り、親族・門弟たちとひそかな決別の宴が持た
れ、松陰を温かく見守る家族のもとで最後の一夜を過ごした。別れに当たって一
夜を自宅に帰らせるというのは久坂玄瑞の提案によるものであったが、もとより
正式に許されたものではなく、先に松陰が野山獄に投獄されていた折から松陰の
人柄に心服し、司獄官という身でありながら門弟の礼をとっていた福川犀之助の
独断による配慮であった。そのため、のちにこの異例の処置が藩政府の知るとこ
ろとなり、福川は職を罷免され、「遠慮」の罰を受けることになるのである。
 そして翌二十五日、松陰は未明のうちに野山獄に帰り、腰縄を打たれて護送駕
篭(かご)の人となった。腰縄ということは「乗物は錠前付網掛り腰縄を付すべ
く候。尤も趣により候ては手鎖付に致すべく候事」という幕府から指示された護
送の「覚」に従った処置であり、手鎖までは付けられなかったが、重要罪人とし
て役人五人、中間十五人、計二十人が護送役として同行した。
 護送の行列は萩城下の郊外大屋に至って、松陰の希望によりいったんとまる。
この地は、萩から旅に出かける者がひとしく城下の見納めと涙する場所であり、
その地に茂る数本の往還松を人々は「涙松」と呼びならわしていた。松陰もまた、
この地で駕篭の戸を開けてもらい、萩城下の眺めをしっかりと目に焼きつけたの
ち静かに出発をうながした。
 松陰は、この取り調べの機会に自己の信念のすべてを開陳しようと覚悟してい
ただけに、再び萩城下に帰れぬのではないかという思いが強かったのであろう。
この時、「帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな」と詠み遺(
のこ)している。現在、旧山口街道わきのその地に「涙松の遺址」碑が建てられ、
碑面にこの歌が刻まれており、松陰の心情を偲(しの)ぶよすがとなっている。
 なおこの日、父・百合之助と兄・梅太郎が藩での役職を奪われて謹慎を命じら
れた。一家に累が及ぶということであれば、当然もっと早い時期に処置されてし
かるべきなのであるが、東送の段階での処分ということは、藩としても厳しく対
処しているといった姿勢をみせるための幕府に対する保身的な配慮でもあろうか。
藩政府は、松陰のとりあつかいについても、役所に呼び出された際、門前で駕篭
を降りてから、雨天のときは傘を用いさせてよいか、またどのような履物を用い
させるべきか、大小便の儀を申し出たときはどう取り計らえばよいか、あるいは
月代(さかやき)や髭(ひげ)は摘ませようかどうか、などとまことに詳細な伺
いをたてるほど、幕府に対して気をつかっているのである。そして松陰にしてみ
ても、自分の行動が藩に災いを及ぼすことを深く心配している。
 駕篭は六月二十四日江戸に着き、松陰は長州藩江戸屋敷桜田藩邸の牢に入れら
れる。