吉田松陰      その60
東送留別の言の葉
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 幕府の江戸召喚についての真意が、奈辺(なへん)にあるかは明確に伝えられ
ておらず、従って今回の東送が如何(いか)なる決着を迎えるのか予測しがたい
ところであったが、周囲も不吉な予感のうちに無意識に死出の旅への準備を進め
ていたのである。
 折しも江戸から帰国していた久坂玄瑞は、絵心のある松浦松洞をうながして松
陰の肖像を描かせる。松陰もまた快くこれに応じ、求めにより門弟たちのために、
これに自賛するのである。
 この時、何幅の肖像画が描かれたかは明らかではないが、最後に賛を入れたと
みられる中谷家本(中谷正亮のために賛を入れたもの)に、
 「予人の為に此の賛を書す。凡そ七通。今すでに之を厭(いと)う。賓卿(ひ
んけい・中谷正亮のこと)復もって見んことを迫る。鳴呼、賓卿我において最旧
(の友)なり。それ辞すべけんや。将に之を発せんとするの前夕」
という跋文の書き込みがあることからすれば、少なくとも八幅に賛を入れたこと
になる。
 その松陰の姿図は、いずれも少しずつ異なるが、吉田家に残されたものが趺坐
(あぐら)であるほかはすべて正坐(ざ)で、謹厳な教師像といった感があり、
いささか老成を思わせ、終生青年の如き前向きの心を失わなかった情熱家松陰の
覇気を感じさせるものがない点にやや不満が残るが、この時描かれた肖像画が、
以後松陰像のイメージを決定づけるものとなった。
 現在、自賛肖像画七幅の所在が確認されているが、その賛はほぼ同文。ただ吉
田家本の末尾が「人宜(よろ)しく志を立つべし、聖賢敢(あ)えて追陪(つい
ばい)せん」となっているのに対して、他は「古人及び難きも、聖賢敢えて追陪
せん」となり、「身は家国に許し」の部分が品川家本(品川弥二郎に書き与えた
もの)のみ「身は君国に許し」となっているのが異なっている。もちろん跋(ば
つ)文は、それぞれの事情を語って異なる。吉田家本による賛は、次の通りであ
る。
 「三分(さんぶん)廬を出づ、諸葛(しょかつ)やんぬるかな、一身洛(らく
・中国洛陽のこと)に入る、賈彪(かひゅう)安(いず)くにありや。心は貫高
(かんこう)を師とし、而して素より立名なく、志は魯連(ろれん)を仰ぎ、遂
に難を釈くの才に乏し、読書功なく撲学(ぼくがく・名利を目的としない地味で
まじめな学問のこと)三十年、滅賊計を失す猛気二十一回。人狂頑(きょうがん)
と譏(そし)り、郷党衆(おお)く容(い)れず、身は家国に許し、死生吾れ久
しく斉(ひとし)うす。至誠にして動かざるは古より未だこれあらず、人宜(よ
ろ)しく志を立つべし、聖賢敢へて追陪せん」
 冒頭の三分とは、中国「三国志」の世界における諸葛孔明が立てた天下三分(
蜀・魏・呉)の計をいい、諸葛、賈彪、貫高、魯連は、いずれも中国の歴史を飾
る人物で、志高く、松陰が範とした人々である。
 ちなみに、書画の肩に押す関防印は「日月佳」の大小二種、落款は「吉田矩方」
と「子義氏」の印の併用と、小型の「矩方」と刻んだ二種。子義とは松陰の字(
あざな)である。松陰が生涯に使用した印譜としては、これらの他に「吉田」と
刻んだ小型のものを含めて六種に限られており、文人墨客が好むところの印章の
雅趣といったものにはさほど関心がなかったのであろう。