吉田松陰      その59
東送留別の言の葉
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 松陰は、五月十九日に「宗族に示す書」を記す。
 「吾が宗祖の行(おこない)、吾れ詳(つまびら)かにするに及ばず、子の行、
吾れ未だ知る能(あた)はず。謹んで吾が父母伯叔を観るに、忠厚勤倹を以て本
と為す。吾れひそかに祖母の風を仰ぐ、蓋(けだ)し由あり。今吾が兄弟行漸(
ようや)く将に泰奢(しゃ)の風を萌(きざ)さんとす、誠に惧(おそ)るべき
なり。而して其忠厚を存する者は兄伯教(杉梅太郎)に若(し)くはなく、其の
勤倹を存する者は妹千代・弟毅甫(従弟玉木彦介)に若くはなし。為之兄(従兄
高須為之進)は兄弟中の長者、敬せざるべからず。矩方の如きは一鴟梟(しきょ
う・度々罪を得て一般の人からは凶悪な奸雄のように見られていること)なり、
然れども亦曽(かつ)てはん椹(じん)を食(くら)ふ(藩校明倫館に出仕して
職禄を得ていたこと)。時に或は好音あり(大義を説いたこと)。況(いわん)
や其の将(まさ)に死せんとする、其の言哀(かな)しく且つ善きをや。群弟群
姪(てつ)、宜しく慎んでこれを聴き、永く後人に伝ふべし」
 人一倍肉親愛の深い松陰が心を残すことといえば肉親と一族のこと。親族が睦
(むつま)じくするのは杉家のきわだった美風であるが、それは互いに敬するこ
とが本でなければならない、と考える彼は、後に続く弟妹やおい、めいにそのこ
とを強く訴えておきたかったのであろう。さらに松陰は、妹千代・寿・文の三人
に心得として「こころあれや人の母たるひとたちよかからん事は武士の習ぞ」と
いう歌を書き残し、生来聾唖(ろうあ)の身で心にかかる弟・敏三郎にも「名は
固(もと)より好むべからず、然れども亦名無かるべけんや。世に謗(そしり)
を畏(おそ)るる客あり、乃(すなわ)ち曰く、吾れ名を避くと」の詠名詩を浄
書して与えている。この時においても、なお兄としての、また教師としての導き
の心を失ってはいない。
 だが何といっても、波乱多い松陰の生涯において、常に温かい心遣(や)りを
もって慰め励まし続けてきてくれた兄・梅太郎に対しては、惜別の情おさえがた
いものがあったのであろう、「奉別家大兄詩」として万感胸に迫る詩を書き残し
ている。
 「囚窓客去って夜沈々、限りなき悲愁又復(ま)た侵(せま)る。万里重ねて
傷(いた)む父母の志、三十年益なし邦家の心。狂頑の弟なほ豪語を為し、友愛
の兄強ひて放吟(ぎん)を助く。情は鶺鴒(せきれい)に至りて説き得がたく、
棣花(ていか・庭梅のこと)落ち尽くして緑陰深し」と詩(うた)い、「狂弟矩
方拝具」と署名している。
 鶺鴒の情とは、兄弟相親しみ患難を共に顧みて憂う情を言い、棣花の情とは兄
弟仲美しき情を言う。そして、あえて「狂弟」と署名したところに、数々の心配
をかけた弟としての贖(しょく)罪の意も込められていたのではなかろうか。な
おこの兄への詩は、江戸へ出立の三日前、五月二十二日に書かれたものであった。