吉田松陰      その58
東送留別の言の葉
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 萩を出立するまでの日々、松陰は多忙な時間を過ごすことになる。一時は何と
なく遠ざかっていた門下生たちも、松陰の身を案じ、また激励の意も込めて次々
と面会に訪れた。小田村伊之助を中心とした松下村塾の再興についても話し合わ
れた。
 その多忙な中で、親族や知友・門弟に対して約二十通に及ぶ手紙や留別の辞を
書き記している。
 「今さら驚くべくもあらぬなりかねて待来しこのたびの旅」という歌も、東送
に際して久坂玄瑞に贈った留別の和歌といわれているが、これには二十一回猛士
寅次と署名している。この書や前回述べた「至誠」の書の他、この時期、松陰は
二十一回猛士の署名を数多く用いている。
 松陰は、下田踏海事件の罪によって野山獄に投ぜられた折の安政元年十一月二
日、「二十一回猛士説」と題する次のような一文を書き、以後二十一回猛士の号
をしばしば愛用してきた。
 「吾庚寅(こういん)の年(文政十三年)を以て杉家に生まれ、すでに長じて
吉田家を嗣ぐ。甲寅(こういん)の年(安政元年)罪ありて獄に下る。夢に神人
あり、与うるに一剌を以てす。文に曰く。二十一回猛士と。たちまち覚む。よっ
て思うに杉は二十一の象あり。吉田の字もまた二十一回の象あり。吾が名は寅、
寅は虎に属す。虎の徳は猛なり。吾卑微(ひび)にして、辱弱(じょくじゃく)、
虎の猛を以て師となすに非ざれば、いずくんぞ士たることを得ん。吾生来事に望
み、猛をなすことおよそ三度なり。しかして或は罪を獲、或は謗(そしり)を取
り、今はすなわち獄に下り、またなすことを能わず。しかも猛の未だ遂げざれる
もの、なお十八回あり、その責もまた重し。神人けだしその日にますます辱弱、
日にますます卑微にしてついにその遂ぐる能わざらんことを懼(おそ)る。故に
天意を以てこれを啓(ひら)くのみ、しからばすなわち吾の志を蓄(たくわ)え、
気を并(へい)する、あにやむことを得んや」
 杉の字の木を分解すると十八、彡が三で計二十一となる。また吉田の字も士と
十で二十一、口と口をあわせて回の字になる、というのである。己の名前から二
十一回の猛烈な行動を行なう士として自らを励ましていたのである。
 東送を前にしてこの二十一回猛士の署名を数多く用いたということは、亡命し
ての東北歴遊、下田踏海(海外渡航未遂)事件、水野暗殺教唆、梅田雲浜奪回計
画、老中・間部要撃計画、伏見要駕策、そして幾度かの激烈な上書など、数回に
わたって猛挙とする行動を取って来た松陰が、今回の東送もまた、受け身の姿勢
ではなく、積極的な戦いへの猛挙として認識していたのではなかろうか。
 もちろん、この時点で死という結末への明確な予測があったわけではない。た
だ松陰としては、身を賭(と)して大義を訴えようという志を固めていたという
ことはできよう。その故に「志(し)は死なり」という結末へ突き進むことにな
るのである。二十一回猛士の号に殉じた生涯とでもいうべきであろうか。