吉田松陰      その57
東送留別の言の葉
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 幕府が松陰を江戸に呼び出そうとしたのは、すでに捕らえられて取り調べを受
けている梅田雲浜との関係を質(ただ)すためであった。先に述べた通り、梅田
雲浜は安政三年の十二月十八日に萩を訪れ、翌年一月十四日まで滞在し、その間、
松陰とも交流があった。このため、国禁を犯し、とかく過激な言動のある松陰と
も深いかかわりがあるのではないか、とみられたのである。
 松陰の東送命令が四月十九日に出され、長州藩ではこの命を松陰に伝え、対応
など諸事について打ち合わせをするため、長井雅楽(うた)が江戸から急きょ帰
国。五月十三日に萩に帰省した長井は早速翌十四日、父・杉百合之助に内命、そ
の日の午後、兄・梅太郎が野山獄の松陰に伝えたのである。そして公式の命令書
は十日後の五月二十四日、士籍を剥奪(はくだつ)されている松陰の育(はぐく
み)親として、その身柄に責任のある父親あてに交付された。安政の大獄のあら
しが、いよいよ松陰の身にも及んできたのである。同日、江戸の高杉晋作、尾寺
新之丞、飯田正伯連名の激励の書状も届いた。
 これに対して、誠意は必ず人を動かすと信じる松陰は、周囲の心配をよそに、
尊攘の大義を幕府尋問の場において十分に述べ、幕政転換に役立てようと、意を
決するところがあった。やむを得ず命に服するというのではなく、積極的に幕吏
に大義を説こうと、むしろ心底に高揚するものを感じていたのである。松陰は命
を受けた四日後の五月十八日に、
 「至誠にして動かざる者未だこれあらざるなり。吾れ学問二十年、齢(よわい)
も亦而立(じりつ・「論語」の三十にして立つの言葉から三十歳のことをいう)
なり。然れども未だ斯(こ)の一語を解すること能(あた)はず。今茲(ここ)
に関左(かんさ)の行、願はくは身を以てこれを験(ため)さん。乃ち死生の大
事の若(ごと)きは、姑(しばら)くこれを置く」と、二十一回猛士の署名をも
って記している。
 また東送命令を聞いて以来期するところがあったのであろう。早速十四日から
日々の記録をつづり始めた。日々の記事や家族・知友・門弟たちに遺(のこ)し
た詩歌文章からなるこの記録は、萩を出発する同月の二十五日で終わりとなって
いるが、今日「東行前日記」として知られるものである。
 「かけまくも君の国だに安からば身を捨つるこそ賤(しず)がほいなり」「五
月雨の曇りに身をば埋むとも君の御ひかり月と晴れてよ」「今更に言の葉草もな
かりけり五月雨晴るる時をこそ待て」という三首の歌は、この「東行前日記」の
冒頭を飾るものであるが、松陰の死をも覚悟した深い思いが偲(しの)ばれる。
 松陰は東送への覚悟を定めると同時に身辺の整理にも心を配り、「文稿六巻(
戊午・己未)思父(品川弥二郎)に附候。別に一本写して、原本は思父に密蔵さ
すべし」「野山文稿二冊、和作にある」「詩稿は口羽・玄瑞へ頼み、撰(えらん)
で貰たし」などと、自己の文稿類の所在を明らかにし、現存するものは小田村伊
之助に渡して今後の整理を依頼する。
 小田村は、のちの楫取素彦(かとり・もとひこ)。松陰の妹・寿の婿で松下村
塾の運営にも参画。藩内俗論派のために兄・松島剛蔵と共に投獄されるが死を免
れ、維新後は宮中顧問官、貴族院議員などを歴任した人物である。なお妻・寿を
早く失い、久坂玄瑞に嫁して未亡人となった寿の妹・文を後妻に迎えている。