吉田松陰      その56
大義への行動画策
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 一度は絶望の中で死をもって大義を示そうと絶食の行動にまで出た松陰であっ
たが、二月になると再び直接行動を画策する。これが伏見要駕策といわれるもの
で、藩主・毛利敬親が参勤交代のため伏見を通過する際に、大原三位卿自ら伏見
に出掛けてもらい、敬親公の京都入りを説得させようとしたものである。
 そのためには、まず大原三位卿の説得が必要であり、なおも松陰について行こ
うとする入江杉蔵の弟・和作(のちの野村靖)が松陰の密書を持参して単身萩を
出発する。しかし、これも藩当局の知るところとなり、和作は捕らえられ投獄さ
れて伏見要駕策は失敗に終わった。松陰は、この策の趣旨を述べた「要駕策主意、
上・下」(「己未文稿」収録)の中で、次のようなことを言っている。
 入江杉蔵が金策に奔走して二月十五日にそれも出来、二十四日に弟の和作が兄
に代わって脱走した。その間、のびのびになること実に十日、ついに機を失して
しまった。何としても残念至極である。これも諸君の罪というべきだ。朝廷の意
図や幕府の企図がどうであれ、藩主に尊攘(じょう)の志がある以上、およそ臣
たる者はひたすらこれに従えばよい。
 ところが現状では、藩主に媚(こ)び、朝廷の意にさからおうとしているのだ。
一体だれがこうなるようにはかったのか。藩政府要路にある人々は責任を免れ得
ない。今や草莽(そうもう)の力を借りて小人や悪人どもを除去し、正義の士や
君子にそれぞれ所を得させることが、神州に報い、わが藩に報いる道である。あ
あ、だれもこれを知っている者はいないのか。諸君は、あるいは「わが藩公の尊
攘の主意は、すでに挫折したも同然だ。藩公の意がくじけた以上、臣子たる者が
いまさらなにをしようというのか」という。だが、これは何たる言い分だろうか。
『孟子』にも「わが主君は駄目だと見限って善政をすすめないのは、賊(逆臣)
というものである」と言っているではないか。これまでの同志たちは、今はまさ
にこの国賊ともいうべきだ、悲しい、何とも悲しい極みである。
 松陰が昨秋以来、一死を堵(と)して画策してきた行動計画のすべてが失敗に
帰し、また同志と信じてきた門弟たちまでが彼のもとから去ろうとしている今、
松陰はさらに深い孤独と絶望感を味わう。
 松陰はこの時期“一死を賜るよう御周旋を”と願い、「吾の死を求むるは、啻
(ただ)異を好むに非(あら)ざるなり」「平時直諌なくば、戦に臨みて先登な
し。是れ治乱同じく済(すく)われざるなり。一念ここに至り、但だ感傷悲愁あ
るのみ」と、「感傷の言」を書いている。
 また四月七日の北山安世あて書簡の中に「今の幕府も諸侯も早早(もはや)酔
人なれば扶持の術なし。草莽崛起(そうもうくっき・民衆が立ち上がること)の
人を望む外頼みなし」と、のち維新変革の原動力となった草莽崛起の思想をはっ
きりと語っていることも注目すべきであろう。
 そして五月ともなると、松陰の心もいくらか落ち着きを取り戻し、五月十三日
付の高杉晋作にあてた手紙では、自分の心情を素直に吐露し、また高杉への温か
い忠告がみられる。だが松陰に真の安らぎが訪れることはなかった。伊井大老に
よる弾圧が激しさを増す中で、幕府は四月十九日、松陰の江戸召喚を命じ、その
東送命令が五月十四日、萩の地に伝えられるのである。