吉田松陰      その55
大義への行動画策
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 父の病状や幽囚を命じられた門弟たちのことを思って、失意の内にあった松陰
のもとに、江戸にいる高杉晋作、久坂玄瑞、中谷正亮、飯田正伯、尾寺新之丞の
五人の連名血判による書状が届く。間部要撃策への参加を求める松陰に対して、
その義挙は時機尚早だから思いとどまり、自重してほしいという諌(いさ)めの
手紙であった。これより先、松陰が藩に武器の貸与を願い出た時点で、親友の来
原良蔵までが「売名行為であり、忠義にあらず」となじって絶交の状態になって
いた。
 松陰にしても、どこまで実現性を信じていたか疑問である。彼にしてみれば、
他藩が行動を起こそうとしているという情報を聞いて、長州藩の立ち遅れを恐れ、
とにかく行動を起こすことによって、静観論の藩政府を目覚めさせようという意
図であったとも思える。まさに成否を超えたところでの純粋理論的意味を持つ決
起の意志といえないこともない。後年、高杉晋作が藩論統一のために周囲の反対
を押し切って、功山寺に決起した行為とも相通じるものがある。要は時局の見定
めが問題であった。
 だが松陰にとって、これは一つの志であって、少なくとも高杉や久坂らの門弟
たちだけは、一身を投げうって直接行動を起こそうとする自分の「志」に賛同し
てくれるものと信じていたのである。事実、萩に残る門弟たち十七人は、松陰の
策を受け入れ、行動への参加を約している。江戸組の拒絶は、松陰を怒りと絶望
の“心思錯乱”へと追いやる。
 松陰は、正月十一日の某あて書簡に「江戸居の諸友、久坂・中谷・高杉なども
皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は、僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす
積り」と訴えている。松陰の考えは、忠義は王道に通じる政治的方便である。時
節の到来を待って何か手柄を立てようというのならだれにでもできる。しかし時
を待っていてもその時はこない。至誠に発する行為をもってその時をつくるのが
忠義であるというのだ。
 そして別の書簡には「吾が輩、皆に先駆けて死んでみせたら観望して起るもの
あらん」と悲痛な思いを述べ、また、松陰に従う入江杉蔵にあてた手紙には「足
下も諸友と絶交せよ。同志の士を峻(しゅん)拒せよ」と書く。さらに松陰は、
知人門人たちが次第に自分を敬遠して行くのを感じて絶望感を深め、二十四日に
至って、そういう空気に抗議するかのように、絶食して大義を示そうとするので
ある。
 「吾れの尊攘は死生これを以てす。自ら謂(おも)えらく、以て天地に対越(
たいえつ)すべし」、また「誠あらば則ち生き、誠なくんば則ち死せん。然らず
んば何を以て天地に対越せんや」と、悲壮な絶食の辞を書く。
 同囚からの連絡で、松陰の絶食のことを知った両親も叔父の玉木も憂慮し、書
状をもってその不心得をいさめる。母・滝は「たとへ野山やしきに御出で候ても
御ぶじにさへこれ有り候へば、せい(勢)になり力になり申し候まま、たんりょ
御やめ御ながらへのほどいのり参らせ候。此の品わざわざととのへさし送り候ま
ま、ははにたいし御たべ頼み参らせ候」と、食べ物を差し入れ、叔父は「汝獄中
の餓死大義において何の益あるや」と諭す。このため、松陰は水一椀(わん)と
干しガキ一つを食べることにするのである。