吉田松陰      その54
大義への行動画策
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 松陰の間部詮勝(まなべ・あきかつ)暗殺計画はまさに無謀であり、周囲の者
には狂気にさえみえた。松陰の猛挙を憂慮した周布政之助は、まず松陰の叔父で
厚狭郡吉田宰判領の代官を務める玉木文之進を呼び、松陰をよく諌(いさ)める
よう促す。一徹な玉木は、これに対して職を辞して松陰と同居し、学術不純であ
ればこれを規正しようと病気退職の願書を提出するが、玉木に退職されても困る
ので願書を却下し、投獄の方針を一たんは厳囚の処置に変え、同時に「松陰の学
術不純にして人心を動揺す」という理由で十一月二十九日、松下村塾の閉鎖を命
じた。ここに“松陰の松下村塾”の幕は閉じられるのであるが、松陰は決して完
成された姿において教師であったわけではなく、その純粋な情熱と志において人
々の魂を導いた教師であり、むしろ、塾閉鎖の原因となった松陰の激情と以後の
行動を起爆剤として、松陰を師とする松下村塾の真価が発揮されることとなるの
である。
 藩は一たん厳囚の処置としたものの、十二月五日に至って、改めて借牢願書の
形式による投獄の断を下した。翌六日、この処罰を不満として、入江杉蔵(九一)、
佐世八十郎、吉田栄太郎(稔麿)、岡辺富太郎、福原又四郎、作間忠三郎、有吉
熊次郎、品川弥二郎ら在萩の六人の門弟たちが、松陰の罪名を質(ただ)すべく
藩政府の要人・周布らのもとに押しかけ、城下を騒がせた暴徒として自宅に幽囚
を命じられる。
 しかし、ちょうどそのころ、松陰の父・杉百合之助が病の床にあり、病状も悪
かったため看病を理由に下獄の一時延期を願い出て許され、父の病状がやヽ恢(
かい)復したのち松陰が再び野山獄に入獄したのは、年の瀬もおし迫った十二月
二十六日のことであった。
 この日、外は一面の雪であったが、およそ二十人ばかりの親類縁者や門人たち
が集まって送別の宴を開き、父親も「一時の屈は、万世の伸」と松陰を励ます。
別宴の席上、寄せ書きが行なわれ、松陰はその中に「武夫(もののふ)の別れの
筵(えん・むしろのこと)や雪の梅」という句を書き残している。
 そして入獄初日である二十七日、父親あてに
 「昨夜の御病状如何在らせられ候や。別筵(べつえん)余り愉快に過ぎ、跡に
て御労れは出で申さずやと案じ奉り候。〜中略〜獄中蒲団二枚重ね、毛せん、小
蒲とん、よぎにて酒気未だ解けざる内明け申し候。起き候へば巳に雀語、近夜相
継ぎ夜深しの眠を補ひ、勿論甚だ暖かに御座候。今朝より少々就業申すべくと存
じ奉り候。何も御安心成し遣はされ、御病気御保重専ら祈り奉り候」と、父の身
を気遣い、また安心させようという心配りの手紙を書き送っている。
 この手紙にみる限り、心の安定を感じさせるが、松陰は先の十二月十一日、「
自詒」と題する詩を書き、それには「鳴呼、獄に投じて生きんよりは、寧ろ死し
て其の義を全うせん」と、激した心境を述べている。父の看病のため入獄延期を
願ったが故に、幕府に対する罪名を明らかにせよという主張等も放棄しての下獄
であってみれば、彼自身鬱々(うつうつ)たる思いであったろう。
 自詒の「詒」の字はイまたはタイと読むが、意味には、後に残す、子孫に伝え
る、人にものをおくる、などの他、あざむく、言葉を飾ってだます、気ぬけする
さま、といった面も含まれている。従って、自らの心をなだめて入獄指令に従う
切ない思いも、込められているのではあるまいか。