吉田松陰      その53
大義への行動画策
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 伊井直弼が大老職についたのが安政五年の四月、武断政治家といわれた彼は強
引に米国との修好通商条約を調印、また将軍継嗣問題についても紀州徳川の家茂
を推し、一橋慶喜(前水戸藩主・徳川斉昭の子)を推して対立する徳川斉昭、尾
州藩主・徳川慶恕、福井藩主・松平慶永、水戸藩主・徳川慶篤、一橋慶喜らを処
罰する。「大義を論ず」も、こうした動きに対する松陰の怒りであったわけだが、
松陰の意識の激化は、決して理論や文書の上だけのものでなかった。
 伊井大老の強引な画策に対して、長州藩はなお静観論をとる中で、松陰の行動
は次第に先鋭化していくのである。
 その年の九月九日、松陰は長文の手紙を江戸在住の松浦松洞に書き送り、紀州
の藩付家老、新宮三万五千石の城主・水野土佐守忠央の暗殺を示唆する。水野を
幕府の黒幕的奸物(かんぶつ)とみてのことだが、方法としては「営中で打ち捨
てるは上策、一邸を襲うは中策、座視観望は言うに足らざるなり。此の事越前よ
リ行われ候わば妙々」と。越前福井藩の者と謀って殺せと暗示しているのである。
ただしこの策は実行されず、単なる教唆に終わった。
 次いで九月二十八日には、大原三位重徳卿あてに、西下して討幕の旗揚げをす
るよう促す書面を送る。松陰はこの中で、
 「最早かく成り行き候上は官軍賊兵の姿忽(たちま)ち両端に相分れ候儀に付
き、有志の士は悉(ことごと)く弊藩迄駈付け申すべく候。左候はば万々失策に
出で候も、私共同志の者計り募り候とも三十人五十人は得べくに付き、是れを率
ゐて天下に横行し奸賊の頭二つ三つも獲(え)候上にて戦死仕り候も、勤王の先
鞭(べん)にて天下の首唱には相成り申すべく、私儀本望之れに過ぎず候」
と述べている。彼の心の中には、門弟とともにという思いもあったのであろう。
また、「草莽(そうもう・民草・一般民衆のこと)の志士を募る…」という言葉
も用いている。松陰は、この書面とともに手渡すべく書いた「時勢論」には、「
草莽の臣藤原矩方謹んで撰す」と署名している。しかし、これも京都の長州藩邸
で握りつぶされて大原卿の手には届かなかった。
 これより先、いよいよ安政の大獄の嵐(あらし)が吹き始めており、九月七日
には尊攘(じょう)派の先駆者・若狭小浜藩の梅田雲浜が幕吏に捕らえられてい
た。これを知った松陰は、十月初旬、松陰の門下生であり、梅田雲浜にも師事し
た赤根武人を亡命させ、伏見の獄を破り梅田を救出する策を授ける。これもまた、
すぐに藩政府の察知するところとなり、実行に至らなかった。
 さらに松陰は過激な計画をたてる。伊井大老が京都に送り込み志士たちの粛清
を推進させている老中・間部詮勝(まなべ・あきかつ)を暗殺しようというので
ある。松陰はただちに塾生たちに呼びかけ、十七人の塾生がこれに加盟するや、
藩政府の前田孫右衛門と周布政之助に対して、暗殺に必要な武器として、軽便な
速射砲クーボール三門、百目玉筒五門、三貫目鉄空弾二十、百目鉄玉百、合薬五
貫目を貸してくれと願い出る。そして十二月十五日をその出発の日と定めた。こ
こでもまた赤穂義士討ち入りの日へのこだわりを見るのである。
 もとより藩がこの計画を受け入れるわけはなく、周布政之助はこれを阻止する
ため、十二月五日、松陰を投獄する旨の藩命を下した。