吉田松陰      その52
大義への行動画策
*[1]*
 慈しみ育ててきた中心的な塾生たちを推挙し、次々と旅立たせたことは、松陰
にとって教師としての充足感はあったであろうが、一面、身辺の淋(さび)しさ
というか、ある意味での寂寥(りょう)感を味わったにちがいない。
 しかも旅立った門弟からは、次々に緊迫した江戸や京都からの情報が伝えられ
てくる。
 情勢が刻々と進展するなか憂国の心は逸(はや)っても、動くことのできぬ身
の松陰としては、当然、いらだちの思いも生じたであろう。
 松陰自身の思考の深化と同時に、そのいらだちも手伝ってか、彼の幕政を弾劾
する論調も次第に激しいものとなっていった。
 松陰は安政五年の七月十三日、「大義を論ず」(「戊午幽室文稿」収録)とい
う一文を草して、藩政府に対して上書する。
 「墨夷(ぼくい・アメリカのこと)の謀(はかりごと)は神州の患たること必
(ひつ・明白なこと)せり。墨使の辞は神州の辱(じょく)たること決せり。こ
こを以て天子震怒(しんど・激しく怒ること)し、勅を下して墨使を絶ちたまふ。
是れ幕府宜(よろ)しく[足宿]蹙(しゅくしゅく・恐縮すること)遵奉之れ暇(いと
ま・つとめなければならないこと)あらざるべし。今は則ち然らず、而して天勅
を奉ぜず。是れ征夷(徳川将軍のこと)の罪にして、天地も容(い)れず、神人
皆憤る。これを大義に準じて、討滅誅戮(とうめつちゅうりく)して、然る後可
なり、少しも宥(ゆる)すべからざるなり」
に始まるこの一文は、松陰が“討幕論”を明確に打ち出した画期的な論稿であり、
討滅誅戮という激しい言葉を用いて、武力による討伐打倒の意志をも示している
のである。
そして松陰は、
 「試みに洞春公(とうしゅんこう・藩祖毛利元就)をして今日に生まれしめば、
其れ之れを何とか謂(い)はん。夫(か)の陶賊(とうぞく・大内氏の重臣で主
君義隆に叛き領国を奪った陶晴賢)は特(た)だ其の主に叛けるのみ。洞春公猶
ほ且つ聴かず(許さなかった)。いま征夷は国患を養ひ、国辱を貽(のこ)し、
而して天勅に反き、外、夷狄(いてき)を引き、内、諸侯を威(おど)す。然ら
ば則ち陶(すえ)なる者は一国の賊なり、征夷は天下の賊なり。今措(お)きて
討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん。而して洞春公の神、其れ地下に
享(う)けんや」
と述べ、長州藩が討幕の先駆となるよう訴えている。
 松陰は翌安政六年三月、再び野山獄に投じられた挫折の中にあって、この草稿
は保存しておき、もし策が失敗したときはこの意見書を収めた一巻をもって堂々
と処罰を受けよう、成功すれば後世の人々の資料として役立てたい。これらの草
稿によってどのような重い罪を受けようとも、私は一字たりとも削り訂正する気
はない。と、この一文の余白に書き加えるのである。
 松陰は、「大義を論ず」を書いた三日後の十六日には、さらに具体的に討幕の
策を論じた「時義略伝」を藩政府にさし出している。
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[足宿]は一文字です。