吉田松陰      その51
巣立ちゆく俊英たち
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 松陰に教えを受け、幕末政治運動に従事し、峻(しゅん)烈に戦い、そして死
んで行った若者たちは久坂・高杉ら四天王だけではなかった。七十人に及ぶ松陰
門下生の中から、幕末の政治運動に従事した者の一覧表(山口県立山口博物館編)
によると、その数四十二名。しかも、その過半数が貴い生命を時代変革のために
捧(ささ)げているのである。
 その内容をみると、自刃八名。まず文久二年に、尊攘(じょう)運動に従事し
ていた松浦松洞が自刃、元治元年六月の池田屋事件で吉田稔麿・杉山松介が共に
重傷を負って自刃、同年七月、長州藩が京都に兵を進めた禁門(蛤御門)の変で、
久坂玄瑞・寺島忠三郎・有吉熊次郎・阿座上正蔵・弘忠貞が傷ついて自刃してい
る。
 次いで戦死四名。元治元年の禁門の変で入江九一、慶応元年の藩内訌戦(絵堂
の戦)で玉木彦介、明治元年の北越戦争で時山直八、同年の北海道の戦いで駒井
政五郎が壮烈な戦死をとげる。
 慶応元年に病没した遊撃隊参謀の高橋貫之助、四境戦(第二次征長戦)の小倉
口の戦いを指揮しながら病没した高杉晋作、また慶応二年、四境戦争従軍中に事
故死した高須滝之允なども、あるいは戦死者の中に加えてもよいのかもしれない。
 これらのほかにも、文久二年国事に従って獄死した飯田正伯、慶応元年に俗論
派のために処刑された回天軍総督の大谷茂樹なども、もちろん尊い犠牲者に加え
られる。
 特異な例では、奇兵隊三代総督を務め、大いに活躍しながら、最後は裏切り者
として慶応二年に処刑された赤根武人、維新後は参謀、さらに兵部大輔にまでな
りながら新政府の政策に不満を持ち、明治九年「萩の乱」を起こして逆徒として
処刑された前原一誠(佐世八十郎)などがいる。前原の場合、北越の戦いが終わ
り越後府判事に任ぜられるが、その年の春、水害に苦しむ農民たちの要望を入れ
て、一誠は独断で新政府の発令した地租を半減する令を出す。師の松陰から受け
継ぎ、胸中に抱く政治の理想を実現しようとしたものだが、この善政を中央政府
は他に悪しき影響を及ぼすとしてとがめたことから、一誠は越後府判事を辞任、
このころから新政府との対立こが生じていたのである。
 萩の乱も、また一誠の誠実さの故とも言えるのではなかろうか。松陰は一誠の
人柄を「八十(一誠)勇あり、智あり、誠実人に過ぐ。その才は久坂に及ばず、
その識は高杉に及ばざるも、その人物の完全なること、二人も遠く及ばず」と、
称揚しているのである。
 松陰門下に限らず、長州藩が維新の変革に注いだ血は多大なものがある。その
激動をくぐり抜けて生き残った松門の人々は、伊藤博文・山県有朋の総理大臣、
品川弥二郎・野村和作(靖)の内務大臣、山田顕義の司法大臣、あるいは尾寺新
之丞の伊勢大神宮大宮司と、ひとかたならぬ顕職に達するのである。
 世に長州閥というが、むしろ松門閥という感が強い。その頂点にたったのが、
松陰に「利助もまた進む、なかなか周旋家になりそうなり」と評された才能を生
かした伊藤博文である。それにしても、松陰のすさまじい感化力であった。