吉田松陰      その50
巣立ちゆく俊英たち
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 世に、よく「双璧(へき)」とか「四天王」とか言われる。松下村塾において
も、久坂玄瑞と高杉晋作をもって双璧とし、これに吉田稔麿と入江九一を加えて
四天王とする。
 久坂と高杉の二人が松門において抜きんでた存在であったことは衆目の認める
ところとしても、吉田と入江の二人をこれに加えて四天王と称する評価は、いか
なる視点、またどの時点において定まったものであるのだろうか。
 松陰門下には、この四天王の呼称とは別に「三無」という称もある。松陰は、
周防山代の医家の子で安政三年から寄宿して教えを受けていた増野徳民(ましの
・とくみん)に無咎(むきゅう)、萩藩足軽の子で同じく安政三年以来の吉田栄
太郎(稔麿)に無逸(むいつ)、萩郊外・松本の魚屋の子で絵師を志す安政三年
組の松浦亀太郎(松洞)に無窮(むきゅう)という字をそれぞれつけてやり「三
無」と呼んで、この少年たちをかわいがっていたのである。
 ともあれ、松陰の人を観(み)る目は確かであった。その性格を的確に見抜き、
その性格に応じて刺激し、励まし、育てていくのである。特に、その人物の持つ
美質を見逃さない温かさがあった。前回述べた「高杉暢夫を送るの敍」に語られ
ている久坂と高杉を競争させながら成長させて行った指導の姿など、まさに松陰
の面目躍如たるものがある。
 ともかく、松陰の久坂と高杉に寄せる信頼は厚く「玄瑞の才はこれを気に原づ
け、而して暢夫の識はこれを気に発す。二人にして相得たれば、吾れ寧(いずく)
んぞ憾(うら)みあらんや」と言う。
 天保十一年(1840年)藩医の二男に生まれた久坂義助(玄瑞)は明倫館に
入り、のち医学所で蘭学を学ぶが、十四歳のとき父と兄を失い、翌年家督を嗣い
で二十五石を給せられる。その後、兄の友人・中村道太郎、僧・月性の指導を受
け、その勧めにより松下村塾に入り、安政四年十二月、十八歳のとき、松陰の妹
・文(ふみ、十五歳)と結婚、杉家に同居して久保清太郎、富永有隣とともに松
陰を助けて村塾運営に当たっていただけに、松陰にとっては門弟以上の心強い存
在であったろう。
 久坂とは対照的な個性を持つ高杉晋作については、その美質を見抜き、二人で
切瑳(さ)琢(たく)磨すべき存在として尊重、その胆力により後年大業をなす
人物と期待もしていた。二人を評して「久坂は防長第一の俊才、高杉は胆略絶世
の士」とも言っている。
 また四天王の入江を「吾れの甚だ杉蔵に貴ぶ所のものは、その憂いの切なる、
策の要なる、吾れの及ばざるものあればなり」と称し、吉田については「実甫(
久坂)の才は縦横無礙(むげ)なり、暢夫(高杉)は陽頑、無逸(吉田)は陰頑、
皆人の駕御(がぎょう)を受けず、高等の人物なり」と評している。
 この若者たちが村塾を巣立って行くとき、彼らがやがて迎えるその峻(しゅん)
烈な死の運命を知る者はいない。