吉田松陰      その49
巣立ちゆく俊英たち
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 国情は激しく動き、緊迫の度が増して行く中で、松下村塾の若者たちが真価を
示し、変革の時代に大きく羽ばたく時が訪れて来た。安政五年、松陰のもとから
多くの門下生が激動の江戸・京都へ旅立つ。
 二月に、まず久坂玄瑞が江戸に向かう。三月には松浦松洞、六月には中谷正亮、
七月には入江杉蔵(九一)、そして高杉晋作が東上、同月、伊藤利助(博文)も、
後に塾生となる山県小輔(有朋)らと京都探索の任で旅立つ。八月には尾寺新之
丞も東上する。これらは、いずれも松陰の推挙による。そして門下生の旅立ちに
当たっては、松陰は必ず「送敍」を贈って、これを励ました。
 松陰の送敍には一つの形がある。まず当人とのかかわり、評価、自分の思いな
どを語り、次いで憂うべき時勢に対処する心構えを説き、そして万感の思いを込
めて惜別の辞を書きつづっている。それぞれに情感のほとばしり出た名文で、門
弟たちの心に大いなる火種を投げ込むものであった。
 まな弟子・入江杉蔵を送る敍には次の言葉がみられる。
 「其の志亦奇なり。而して其の説も亦頗(すこぶ)る吾れと同じうす、吾れ深
く之を喜ぶ。然れども是れ皆読書人の習気、何ぞ甚しく貴ぶに足らん。吾れの甚
だ杉蔵に貴ぶ所のものは、其の憂の切なる、策の要なる、吾れの及ぶ能はざるも
のあればなり」
 また、末尾の一節、
 「杉蔵往け。月白く風清し、飄然馬に上りて、三百程、十数日、酒も飲むべし、
詩も賦すべし。今日の事誠に急なり。然れども天下は大物なり、一朝奮激の能く
動かす所に非ず、其れ唯だ積誠之れを動かし、然る後動くあるのみ。七月十一日」
も、「戊午幽室文稿」中でよく知られているところである。
 さらによく知られているのが「高杉暢夫を送る敍」である。高杉暢夫(ちょう
ふ)とは言うまでもなく高杉晋作。
 「余嘗(かつ)て同志中の年少多才なるを歴撰し、日下(久坂)玄瑞を以て第
一流と為せり。己にして高杉暢夫を獲たり。暢夫は有識の士なり、而れども学問
蚤(はや)からず、また頗る意に任せて自ら用ふるの癖あり。余嘗て玄瑞を挙げ
て、以て暢夫を抑ふ、暢夫心甚だ服せざりき。未だ幾くならずして、暢夫の学業
暴(には)かに長じ、議論益々卓(たか)く、同志皆為めに袵(えり)をおさむ。
余事を議する毎に多く暢夫を引きて之れを断ずるに、其の言往々にして易(あな
ど)るべからず。ここに於てか玄瑞も亦尤も之れを推して曰く、『暢夫の識や及
ぶべからず』と。暢夫反って更に玄瑞の才を推して、当世無比と為す。二人懽然
として相得たり。〜中略〜暢夫の識を以て、玄瑞の才を行ふ、気は皆其の素より
有するところ、何をか為して成らざらん。暢夫よ暢夫、天下固より才多し、然れ
ども唯一の玄瑞失ふべからず。桂(小五郎)・赤川(淡水)は吾れの重んずる所
なり。無逸(吉田稔麿)・無窮(松浦松洞)は吾れの愛する所なり。新知の杉蔵
(入江)は一見して心與(くみ)せり。此の五人の者、皆志士にして、暢夫之れ
を知ること熟せり。今幸に東に在り。暢夫往け。急ぎ玄瑞を招きて之れを道ひ、
且つ之れを五人の者に語れ」
 松陰は真情を込めて、旅立つわが分身に思いを訴えるのである。それはまさに
魂の高揚をうながすものであった。