吉田松陰      その48
巣立ちゆく俊英たち
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 若き俊英が集い、解放的な塾風の中で、松下村塾はひたすら順調な歩みを続け
るかの感があったが、隆盛を迎えるに従って、松陰にとっても困惑すべき事態が
生じてきた。というのは、藩の要職にある周布政之助を盟主とする嚶鳴社(おう
めいしゃ)グループ(明倫館派)と松下村塾グループの間に、感情的な反目が高
まってきたことである。
 この嚶鳴社というのは、弘化三年(1846年)当時、明倫館廟司であった周
布政之助らの首唱によって明倫館内に組織された若手藩士の研究会である。周布
らは、当時の明倫館生が四書五経の学習で満足している気風を憂慮し、中国やわ
が国の歴史を学び、かつ時局に対応すべき問題をも論究しようという趣旨からつ
くられたもので、参加者も増える中で安政四年に至り、社屋を明倫館から萩城下
の河添の地に移した。
 その主な参加者は口羽徳祐、中村通太郎、来原良蔵、佐久間左兵衛、松島剛蔵、
兼重譲蔵、畑野喜蔵といった人たちで、盟主たる周布にしても、また口羽、中村、
来原といった人たちにしても、本来、松陰に対して好意的な立場に立ち、特に中
村、来原は松陰の最も親しい友人として、よく尽くした人物である。従って必ず
しも敵対的な存在ではなかったのであるが、嚶鳴社グループも一つの学問を形成、
松下村塾も隆盛となり、松陰の論策を藩主が尊重、藩政にそれが反映されるよう
になると、自然、両者の間に対抗意識が芽生え、次第にグループ的対立感情へと
なっていく。
 しかも底流には、主流官学の在廼私学に対する、また門閥の庶民階層に対する
軽べつの視線と、それに対する反発という対立感情が流れている。そのうえ、身
分秩序を無視して実力主義に徹する先進的な学風の松下村塾に対しては過激視す
る空気もある。
 何といっても嚶鳴社の盟主・周布政之助は、微禄の出身ながら天保の改革の功
労者・村田清風に認められ、今や藩政の実権を握る実力者であり、もともと松陰
とも親しい間柄であっただけに、かえって困惑するところがあった。松陰には、
この重大時局において藩内に対立の生じるのを遺憾とする思いもあり、安政五年
の一月、この険悪な空気を避けるべく友人・月性(げっしょう)に両派の調停を
依頼した。
 月性は、周防大畠村遠崎、妙円寺の住職で名僧として知られ、海防論を唱えて
尊攘運動にも活躍、海防僧の異名をとり、黙霖と並んで幕末の怪僧的存在。私塾
清狂草堂(一名・時習館)を主宰し「男子志を立てて郷関を出づ」の立志詩でも
知られ、松陰にも強い思想的影響を与えている。月性は周布とも親交があり、嚶
鳴社グループにも影響力を持っているところから、月性の応援を求めたのである。
 月性は二月に来萩し、一応両者の和解を図る。松陰はその労に報い、さらに真
情を示すため、周布を主題とする会合を開き、村塾からも中谷正亮、高杉晋作、
尾寺新之丞、久保清太郎らを出席させ、議論を尽くし、政府の実情も十分に聞き
ましょうという手紙を月性に出している。