吉田松陰      その47
巣立ちゆく俊英たち
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 教育の内容はともかくとして、村塾の塾としての運営なり動向なりは、どうで
あったのだろうか。今日の塾経営における「学商」的な観点からいえば、順調で
あったとか、順調でなかったとかいう表現が用いられるのであろうが、松下村塾
の場合は、全くそういう次元を超えていた。
 幕末当時の有名私塾における月謝は、普通で年間一両二分、それに盆暮れの付
け届けを加えると、現代のお金で十四、五万程度であったという。しかし松下村
塾では一切月謝を取らず、だれでも無料であった。時に余裕のある者が謝礼を出
す程度で、寄宿生は米を持って来て自分で調理するのが決まりであったが、通っ
て来る門下生への講義が食事時に及ぶと、杉家から飯など持って来て食べさせる。
 松下村塾は、まさに松陰の奉仕、ということは、杉家の奉仕によって経営され
ていたのである。
 そのうえ、塾での講義も時間割といったような規定もなく、昼夜別なく、例え
ば高杉晋作のように、松下村塾に近寄ることを嫌う父をはばかって夜やって来る
者もいる。議論に熱中して徹夜する者もいる。松陰はそれら一人ひとりに誠実に
相対し、情愛を寄せるのである。
 そのように解放的であることから、学習がおろそかになるかというと決してそ
うではない。藩校・明倫館で漢籍素読の試験があり、藩校にも籍を置いている塾
生十五人がそれを受け「皆甲科に登り、一も蹉跌(さてつ)なし」という結果で
あったことをみても、学習の成果も大いに上がっていたことが知られる。
 門下生の年齢、身分も種々さまざまで「来る者は拒まず、去る者は追わず」と
いう松陰の方針故に、門下生が何人いたのかも正確な数字は不明である。ただ、
寄宿生も十人くらいいて、常時三十人くらいの子弟が出入りしていただろうとい
われ、「吉田松陰全集」関係人物略伝などを基にした各種資料の塾生名簿をみる
と、七十一人が記録されている。また桂小五郎を加えて七十二人とするものもあ
る。ただ桂の場合は、松陰の山鹿流兵学の門下生ではあったが、松下村塾に関し
ては土屋蕭海、口羽徳祐、来原良蔵らと同じように、よき理解者、協力者という
立場であったとみるべきであろう。こうした松陰の兵学門下生となると二、三百
人はいたことになる。
 塾生七十一人の内訳は、士分四十九、陪臣六、医師二、僧りょ三、他藩一、町
人四、不明六で、中心は藩の軽輩、下級武士の子弟。最も身分の高いのが大組士
二百石の家柄の高杉晋作、次いで大組士百六十石の中谷正亮となっている。
 また年齢的には、最年少が岡田耕作(外科阿蘭流)の九歳で、年長組は尾寺新
之丞(大組士)の三十一歳、中谷正亮の二十九歳といったところで、平均年齢は
二十歳に満たなかった。
 そのように年齢的にも基礎学力的にも非常なばらつきがあり、複式学級的な授
業方法も困難で、結果的にはマンツーマン方式となり、個性を生かした理想的な
教育が施されることにもなった。