吉田松陰      その46
村塾に育ちゆく魂
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 松下村塾の教育でいまひとつ注目すべきことは、「飛耳長目」ということであ
った。
村塾の机の上には「飛耳長目録」と題した一冊の記録帳が常に置かれていて、門
下生たちはこれを競って詠んだという。
 この「飛耳長目録」というのは、さまざまな機会に得られた内外の情報を記録
した、いわば松下村塾版新聞とでもいったものである。門下生の一人・天野御民
(冷泉雅次郎)は回想記の中で「先生の国事に尽力せらるるには、天下の同志知
己又は門人の各地に遊歴する者と、互いに風説事情細大となく通報し之れを飛耳
長目と題せる書冊に編さんせり。故に身一室を出ずして京坂、江戸其の他各地の
形勢を詳悉(しつ)し、随って之れが画策を施さる。其の飛耳長目は即ち今の新
聞にこそ」と記している。“耳を飛ばし目を長くする”とは、すなわち情報収集
活動で、その意を見事に表現した言葉ではないか。
 本来、松陰はこの情報収集に極めて熱心であり、書を読み、話を聞くだけでは
本当のところはつかめないと、自ら幾度かの旅行をし、北は津軽海峡を望む場所
から、南は長崎・平戸に至るまで各地を巡り見聞を広めた。その努力は国内ばか
りではなく、海外の情報についても、いまだ十七歳のときすでに海外情報を集め
た「外夷小記」を記し、十九歳のときの「西遊紀行」は平戸くに海外の資料を求
めてのことであった。
 今、幽囚の身となり、自ら情報を求めて各地へ出向くことがかなわぬ状況の中
にあって、外圧はますます高まり、国情はさまざまな決断を迫られているとき、
常に傍観者たり得ない松陰は、ますます切実に情報を求めたのである。
 それは自らが知識を求めるだけでなく、村塾の中での一つの教材に転化させ、
師弟が一緒になってその情報を整理分析、現状の認識を深めていったのである。
 やがて門下生が村塾を巣立ち、江戸へ、京都へと赴くや、彼らは松陰の分身と
して積極的に情報を集め、師のもとへ送り届けるのである。
 安政五年の七月、伊藤利助(博文)、山県小輔(有朋)ら六人が京都探索の理
由で旅立つにあたっては「往け六人、本藩まさに飛耳長目を以て務(つとめ)と
為す。爾(なんじ)等を使う所以なり。……其の耳を飛ばし、其の目を長くし、
選ばれし所以の意に報ぜんことを思はずんば将(は)た安(いずく)んぞ六人の
者を以て為さんや」と「六人の者を送る序」を書き贈っている。
 この六人の旅立ちも、もともとは藩政府への松陰の進言によるものであり、こ
のころ松陰は、積極的に門下生を推挙して旅立たせている。松陰にしてみれば、
門下生に活躍の場を与えてやると同時に、自分の分身を情報収集の触手として送
り出す意味もあったのである。
 いずれにしても、松下村塾は長州藩における情報センター的な役割を担い、同
時に松陰の実学的教育の成果を大いに高めることにもなったのである。