吉田松陰      その44
村塾に育ちゆく魂
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 一月の「狂夫の言」から九月の「時勢論」に至る間の、松下村塾の日々にもふ
れておきたい。幸い「戊午幽室文稿」中、六月二十三日に書かれた「諸生を示す」
と題された一文が松下村塾の生活と松陰の教育に対する考え方をよく伝えている。
現代語訳(中央公論社刊「日本の名著・吉田松陰」による)でその内容を紹介し
ておこう。
 「松下村塾で礼儀作法を簡略にし、形式的な規則をつくらないようにしている
のは、禽(きん)獣や夷狄(いてき)のまねをしようというのでもなければ、無
為・自然を道徳の基準とし、虚無を宇宙の根源とした老荘の学派や、世を避けて
清談のみを事とした竹林の七賢などを慕ったものでもない。ただ、いま世間でい
うところの礼法が末に流れ、うわっ面で浅薄なものとなっているから、誠心誠意、
まごころのこもったものにしたいと考えているのみなのである。安政四年十一月、
八畳一室の新塾がはじめてつくられてから、諸君はみなこの方針のもとでお互い
につき合い、だれかが病気をし、困ったりしているときには助けあい、力仕事や
なにか事が起こった際には、それぞれ手伝いあったものだ。それはまさに一心同
体、家族同様だったのである。だから、安政五年三月のこの塾の増築のときには、
そのほとんどは大工の手を煩わすことなく出来上がったのだ。塾生がそれぞれ自
分の仕事として協力したからである」
 ここに増築というのは、八畳一室の塾舎では狭くなり、塾生たちの意見で増築
しようということになって、この年の三月に十畳半を建て増し、現在保存されて
いるところの十八畳半の松下村塾となったことをいうのである。そして、この増
築工事にあたっては、あらましの構造だけを大工に頼み、あとはみな松陰や門弟
たちが一緒担って材料を運び、壁を塗り、あるいは屋根をふいて造りあげたので
ある。
 もちろん農民、町民の子弟もいたが、これと一緒に士分の子弟が土を練り、瓦
(かわら)を並べる姿は、当時としては大変な実践であったといえよう。それが
たとえ物を作り出すことの喜びに支えられた楽しい労働であったとしてもである。
 そればかりではなく、身分の隔たりなく、時には畑を耕し、米をつく。これを
「相労役(あいろうえき)」と称し、松陰はつとめてそういう時間を持つように
心がけた。松陰は、理論や知識の集積による青白い学者を求めてはいなかった。
現実に正しく対応できる魂を身につけさせようとしたのである。言い替えれば、
松陰の学問とは「時務(じむ)の解決のための学問」であったのだ。
 それと同時に、封建社会の縦の倫理に対して横の倫理、連帯感を育てようとし
たのである。
 松陰は、共に労働の汗を流すとき、人の心が最もよく通じ合うのだということ
を信じていた。そうした中から、松下村塾の門下生たちは封建的身分関係を超え
た新しい友情を育て、強い連帯の世界を創(つく)り出し、やがて時代変革の原
動力となっていったのである。