吉田松陰      その43
村塾に育ちゆく魂
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 幽囚とはいえ一応安定した生活の中にあって、松陰は安政五年を高揚した気持
ちで迎えたのであろう。松陰没後、門下生たちによって編集された安政五年中の
文集「戊午幽室文稿」収録の諸編をみると、時局に対しても具体性を持った直截
(せつ)的な発言が目につく。
 前回述べた「狂夫の言」もその一つであり、ほかにも「対策一道」「愚論」「
続愚論」「大義を議す」「時勢論」など、時の政治情勢を反映して松陰のおさえ
がたい思いが書きつづられ、その論調も次第に過激なものとなっていく。
 すでに幕府による安政の大獄が始まっていた九月二十七日に書かれた「時勢論」
では、次のような意見が述べられている。
 現在の情勢では朝廷から幾百通の勅諚(じょう)が下され、諸候が何千通の正
論を建白しても、幕府は全くそれを採りあげる様子はなく、ひたすら外国との和
親を急いでいる。外国との和親が固まったら、天下で正論を主張するものはこと
ごとく罪に処し、また朝廷内部の正論を唱える公卿(くげ)もしめ出し、あるい
は殺害し、次いで承久・元弘の故事を引き合いに出して天皇の処置まで問題にす
るに至るだろう。
 そのことは、このほど梅田雲浜が捕らえられたことからも推し量ることができ
る。それにもかかわらず朝廷においては、今日という機会を生かそうともせず、
空理空論でもって現実の患害が一掃できるかのような議論があるようであり、何
ともなげかわしいことである。
 今の二百六十の諸大名は、富貴の家にぬくぬくと育った者であり、天下国家の
ことはうちく、とりわけ一身一家にこだわって時勢にこびへつらい、臣下もまた
お家の御大事といっては藩主をおさえ、勤王の大義などは夢にも説き及ぼそうと
はしない。だから朝廷が天下の諸候に期待して待ったのでは、ついには幕府の議
論におとしこまれ、その結果、外国の属国となり、この皇国の滅亡は真にとり返
しのつかないことになる。
 この点について真に朝廷がご決心なされたならば、天下万民が信服し、義憤に
燃えて立ち上がるようなご処置をぜひ取っていただきたい。私の考えでは、天皇
自らが天下に勅を下されて、あらゆる忠臣義士をご召集になり、また、尾張・水
戸・越前の諸藩をはじめ正義の士で処罰されたり、あるいは有志の士で、うずも
れている者をことごとく天皇の御前にお集めになり、外夷(い)討伐の正論を堂
々と確立されたいのである。
 この「時勢論」は、まさに松陰が、天皇に対して直接訴えを記したものであっ
た。そして書簡一通を添え、大原三位重徳卿への呈上を図る。
 松陰は、この「時勢論」を書いた約二十日前の九月九日、当時江戸にあった門
下生・松浦亀太郎(松洞)に書を送り、水野土佐守忠央暗殺の策を授けていた。
松陰が直接行動を門下生に示唆した最初のものといわれているが、これは松陰が、
伊井大老をこの水野が唆していると判断してのことであった。
 門弟たちに託そうとした火種が、松陰自身の中にも烈々と燃え盛り始めたので
ある。