吉田松陰      その42
村塾に育ちゆく魂
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 松陰の教えを乞(こ)うて幽囚の室に集まる若者が増えて行くなかで、杉家宅
地内の小舎を補修し、これに教場を移したのが安政四年の十一月五日。ここから
を一応名実ともに松陰の松下村塾とするならば、いよいよ教師・松陰の真骨頂が
発揮されるときを迎えたわけである。時に、松陰は二十八歳であった。
 当時の国情を見ると、日米通商条約の締結と将軍継嗣問題が最大の懸案事項と
なっていた。安政四年十月、ハリスが登城し、将軍にアメリカ大統領の親書を提
出、交渉を重ねて「自由貿易及び横浜・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の
開市」を基本とする条約草案がほぼ合意に達し、幕府は反対派を抑える策として、
事前に朝廷と諸大名に条約草案を示して勅許による条約調印の実現を図った。こ
のため志士たちの間に政治発言が活発となり反発も高まる。
 一方、権力の強化によって難局を乗り切ろうとする幕府内部にも、病弱無力な
家定に代わって英明な将軍を求める動きが起こり、十月には松平春嶽らが水戸藩
の一橋慶喜を将軍継嗣とすべく建言する。
 そして、安政五年一月には日米通商条約の交渉が妥結、勅許を得ようとする幕
府とそれを阻止しようとする勢力の抗争が激化する中で、四月に伊井直弼が大老
に就任。強硬派の伊井は、幕府の指導権維持のため六月九日、勅許を待たず日米
通商条約を締結。さらに同月二十五日には紀州藩主徳川家茂を将軍将軍継嗣者と
決定、幕閣を伊井派で固めた。
 こうした情勢に対し、松陰は憤りおさえがたく、安政五年の正月六日、「天下
の大患は、其の大患たる所以を知らざるに在り」で始まる「狂夫の言」を書く。
内容は、まずアメリカの利を求める申し入れに対しての弱腰な幕府の対外姿勢を
批判し、転じて自藩・長州藩における藩主の心得、人事の刷新、国事論議の体制
づくりなど、いかにあるべきかを論じている。まさに藩主に対する檄文(げきぶ
ん)ともいうべき熾烈(しれつ)な直言である。
 特に人事刷新については、毛利氏一門や永代家老にその人がいなければ寄組か
ら人を得るのが常道であるが、これをおしひろめて、寄組に人がなければ大組の
中から、さらに遠近、無給の中から人をとり、これをさらに徒士や足軽に及ぼし、
なお人がいなければ農・工や商人の中から選んでもよい、と言い切る。従前の人
事でかりそめの安逸をむさぼっていては、今の国家存亡の危急を救うことはでき
ない。大いに議論を起こし、よい考えを出した者は抜擢(てき)し、小臣の志気
を鼓舞し、役立つ人材を育てて行かなければならないと言うのである。
 そして松陰は「人二十一回子(松陰の別称)を狂夫と謂ふも、回子は乃ち猛士
にして狂夫に非ざるなり」と結んでいる。
 この一文はのち藩主の供覧するところともなり、その故ばかりではあるまいが、
長州藩では六月に人事の刷新を行ない、周布政之助、前田孫右衛門をはじめとす
る尊攘改革派、のち正義派と呼ばれる人々が政権の中枢につき、安政の改革を実
行するのである。この天が人材を配するに身分の貴賤(せん)はないとする松陰
の思想こそ、松下村塾の基調となるものであった。