吉田松陰      その41
諸著が語る思想
*[5]*
 「丙辰幽室文稿」にひき続いて、安政四年には「丁巳幽室文稿」が松陰自らの
手によって編まれていることは、後世彼を知ろうとする者にとって、まことにあ
りがたいことである。
 当時、松陰において、その幽囚室とその後の松下村塾が時代変革の震源地たる
ほどの自覚はなかったまでも、一個の学徒の存在を後世に伝えたいとの明らかな
意図によるものであったろう。
 上巻三十八篇、下巻四十二篇、計八十篇を集めてなるこの「丁巳幽室文稿」の
巻首に置かれた「吉田氏略敍」をみても、文末に、
 「右一篇は矩方(松陰のこと)削籍の後、深く後来家系の散逸せんことを慮(
おもんばか)り、百方捜索して、謹んで遺文を葺(おさ)め、…中略…これを杉
氏に寄せ、大人膝下に呈して、永くこれを神室に蔵せんことを請ふ、実に久遠を
謀ればなり」
とあるように、後世に託す意識が強くみられるのである。
 ともあれ文稿中注目すべきは、三月に書かれた「外蕃通略叙」で、これは江戸
時代の外交文書集である近藤守重の「外蕃通書」に対して松陰自らの尊皇的・自
主的外交論の立場から批判したもので、幕府の外交文書の書式が国体の尊厳を冒
涜(とく)していることを論じ、徳川による人臣外交の非を指摘、わが国外交の
正しいあり方を明示したものである。
 この松陰の姿勢は、同文稿収録の「雨森芳洲先生の国王稱号論跋」にもみられ
るところで、近時話題となった朝鮮通信使をめぐって、徳川将軍が朝鮮国王への
復書に国王の称号を使用したことを雨森が批判、新井白石と論争になった一件に
目を向け、「人臣には王号あることなし」と、雨森の意見を是としている。
 また、この文稿で目立つのは「討賊始末」を著して称賛した烈婦登波(とは)
へのこだわりで、登波に関する記事が度々登場しており、退廃した世俗を覚醒(
せい)させようとした松陰の強い意識がうかがわれる。
 文稿中の「諸生に示す」にも「余頃(このご)ろ心に一文を構ふれども、事、
考據に待つあり、にわかに能く弁ずる所に非ず。因って厳に一月を課し、諸君を
謝絶し他業を廃棄し、以て之れを成就せんと欲す」とある。ここにいう一文とは
「討賊始末」を指し一カ月間、門下生との接触も断って執筆に集中したいという
のである。
 そして「士別れて三日なれば、刮目(かつもく)して相待つ、一日見ずんば、
三歳の如し。朋友相与の情、学問日新の機、誠にかくの如きものあり、況(いわ
ん)や一月に於いてをや」と、その一カ月を君たち自身も大いに頑張るようとい
うのである。
 要するに、事にふれ、時にあたって自ら感じたこと、また学んだことを書きし
るした形で門弟たちへの指針を示しており、松陰の門弟教化のありさまをしのぶ
ことができる。
 それと同時に、松陰自身の学問への厳しい姿勢もうかがわれるのである。