吉田松陰      その39
諸著が語る思想
*[3]*
 安政三年(1856年)の八月二十二日、「武教全書」を講じ始めた日に筆を
起こして、この年の暮れまで書きつづった松陰の日録が「丙辰日記」である。教
師松陰の教育日記とでもいえようか。そして、この著述の表紙見返しには、
 「身体髪膚、受之父母、不敢毀傷孝之始也、立身行道、揚名於後世、以顕父母
孝之終也」という、有名な「孝経」の孝始孝終の二句が書かれ、「安政三年丙辰
十月六日、吉田寅次郎藤原矩方」の署名と血判があり、親の恩を尊んだ松陰の心
がしのばれる。
 ところで、この件については「武教全書講録」の「夙起夜寐」の章において、
次のようなことを述べている。
 素行先生の「武教全書」に「時間があれば今日一日の行ないについて反省し」
の一言があるが、反省するというのは、すでに過ぎてしまったことをふり返って
考えることである。過ぎたことをふり返って考えるには、記録をとっておくに越
したことはない。今日から開始し、各人が一冊のノートをつくり、毎日毎日の行
事を詳しく記録し、会合のときに必ず持参して、各人互いに励ましあう一方法と
したい。ノートができれば、表紙に「身体すべて父母から授かったものである。
その身体を傷つけないことが孝の始まりである。立身出世し、道義を行ない、名
を後世に残し、もって父母を顕(あら)わすのが、孝の到達点である」の語を記
す。この語は、忠・孝・武三事の帰着するところである。その下に自分の姓名を
書し、押印として血判をなし、信実のしるしとし、日々これに向かえば、これま
た「孝の出発点から終着点までをみる」という、素行先生の教えにもかなうこと
である。
 松陰の「丙辰日記」表紙見返しの記こそ、まさにその言葉を自ら実践したもの
であったのだ。
 いずれにしても、「身体すべて父母から受く」の孝始孝終の言は、松陰が心に
深く刻んだ思いであった。それだけに、松陰が死を覚悟して家族にあてて書いた
「永訣書」冒頭に、
 親思うこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん
の歌をつづった思いの哀切さが思われるのである。
 ここに取り上げた「丙辰日記」が安政三年の日記であるのに対して、「丁巳日
乗」が翌安政四年正月元日から同年二月十一日までと、八月の記事が一部加えら
れた日記であり、「丙辰日記」とともに貴重な資料である。
 その「丁巳日乗」の正月元日の記事には、親せきの佐々木亀之助が来て、藩校
明倫館が学科目を、経学兼諸子・歴史兼国史・詩文兼諸集の三等に分けたという
ことを話したのに対して、科目を整備することは大いに結構だが、要は国史をも
って幹とし、凛(りん)然として国体を尊ぶ思想を確立するものでなければ、真
に意義あるものとはなり得ないだろうと批判している。
 国史をもって幹とするという考え方は、嘉永四年の東北遊歴において水戸学に
ふれ、国の歴史を知ることの重要性に目覚めた松陰が、以後、眼目とするところ
のものであった。