吉田松陰      その38
諸著が語る思想
*[2]*
 松陰が「武教全書講録」の「子孫教戒」という章で、女子教育論にふれている
のも興味深い。
 当時、女子教育については貝原益軒の良妻賢母主義による女子訓などが知られ
るところであるが、江戸時代において女子教育の必要性を説いた人物は数少ない。
そうした中で、松陰は貝原益軒の書物(「家道訓」「女大学」等)や心学者たち
の書物(石田梅岩「都鄙問答」、手島堵庵「前訓」、中沢道二「道二翁道話」、
柴田鳩翁「鳩翁道話」等)などによる女子教育も結構だが、それらは柔順、幽閑
(静かで奥ゆかしいこと)、清苦(清廉で貧乏に甘んじること)、倹素の教えは
あるが、節烈・果断の教えに乏しい。
 太平無事のときにはそれで十分だが、激動変革の時代においては十分とはいえ
ない。そうした時代には、受け身の美徳ではなく、女性においても各自の「大義」
に生きることが必要で、自己の一命を大義にかける節母烈婦がいてこそ、その後
に孝子忠臣が生まれるのである。命をかけて国の危機を救おうとする志士を内か
ら支える勇気と思想を持つ烈婦こそ望ましいと述べている。
 そこには、松陰の猛挙をも寛容に受け入れ、限りない愛を注ぎ、さらには一族
の婦女子を集めて松陰の講義を聞き彼を励まそうとした母・滝への敬愛の思いも
込められていたのであろう。
 そうして、女性に烈婦たることを望む松陰は、安政四年(1857年)に「討
賊始末」と題する著述をもって「登波(とは)」という女性の事跡を紹介、孝女
・烈婦と称賛するのである。
 この登波という女性は、文政四年(1821年)十月二十九日未明、長州藩領
の先大津宰判滝部村(現、山口県豊浦郡豊北町)で、同居する父・甚兵衛、姉・
松、弟・勇助の三人を、姉・松の前夫・枯木竜之進に殺害され、夫・幸吉も深手
を負わされたことから、十二年間にわたって敵を追い求めて全国各地を旅し、よ
うやくその所在をつきとめて代官所へあだ討ちを願い出る。結果的には竜之進が
自害、これをあらためて斬(ざん)首し、藩が処刑した形式がとられたが、あだ
を討とうという登波の志は一応達成されるのである。
 松陰は、安政四年にまだ生存していた登波に会いにも出かけ「天晴れ大和魂の
凝固せる士大夫(したいふ)にも愧(は)じざる節操なり」と称賛、変革の時に
当たって世人の意識の昂(こう)揚にもと顕彰碑の建立も願い、長文の碑文も書
き残す。
 ちなみに、この松陰の碑文が刻まれた烈婦登波の顕彰碑が滝部八幡宮の一画に
建立されたのは、松陰が死んで五十七年後の大正五年であった。
 もう一度、話は前述「子孫教戒」の章に戻るが、彼はその中で「女子の教戒に
付き一策あり」として、国中において一個の尼房(にぼう)のようなものを起こ
し、女学校と号し、手習い、学問、女子の仕事を練熟させるべきだと「女学校」
の設立を主張しているのである。封建社会の当時において、大いに進んだ考え方
というべきであろう。