吉田松陰      その36
幽囚の間に座して
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 野山獄中、杉家幽囚室、そして松下村塾の時期は、いわば彼の生涯における幽
囚の時代として、大きくまとめてとらえることもできるのだが、松陰の軌跡をよ
り明確にみて行くためには、小さく区切って幽囚室と村塾の時期を分けて考えて
みる必要もあろう。とすれば、いつからを松下村塾の時期とするかは、幾つかの
考え方がある。
 まず親族以外の人が教えを求めてきた時からという見方があろうし、入門者が
増加するなかで、山鹿流兵学の高弟等が家学教授の許可を願い出、藩も幕府や他
藩への体面上、松陰の門人引見を正式に許した安政三年七月二十日以降をもって
村塾の成立という見方もあろう。その背景には、長州藩において周布政之助等進
歩的な人たちが要職についたという時代的推移もあった。
 いま一つの見方は、幽囚室が手狭となり、杉家屋敷内にあった八畳一間の小舎
を修補して、松陰の教育の場をここに移した安政四年十一月五日の時点をもって
「松陰の松下村塾」の出発とするものである。
 あえて「松陰の…」としたのは、もともと「松下村塾」というのは叔父・玉木
文之進が松陰幼少のころに用いた塾名であり、文之進が藩に出仕して多忙となっ
て以後は、外叔父・久保五郎左衛門がこれを受け継ぎ、松下村塾を名乗って教育
活動を続けていたものである。その名跡が松陰に譲られたものであり、いわば第
三期松下村塾が松陰教育の象徴として、世に広く語られるところの松下村塾なの
である。
 そうした点から、私は教育の場としての小舎が完成した時点からを一応「松陰
の松下村塾」とし、それ以前の幽囚室時代をもう一度ふり返り、整理しておきた
いと思う。
 野山獄から杉家幽囚室に移ったのが安政二年十二月五日、直ちに家族を相手に
孟子の講義を開始。安政三年に入って四月十五日、松陰の思想的軌道を知る上に
重要な「七生説」を記し、七生報国の信念を示す。六月十八日、孟子の講義を終
わり「講孟箚記(さっき)」の稿を完成。八月中旬、僧・黙霖が再び萩に来て文
通。松陰もこのころより討幕思想に目覚めていく。同じ月の二十二日から近隣の
子弟のため武教全書の講義を始め、後日の松下村塾の基となる。十月、山県太華
の「講孟箚記評語」への反論を記す中から松陰は自らの思考を深め、論理を再構
築していく。次いで年の暮れも近く十二月十八日、梅田雲浜が萩に来て翌年一月
十四日まで滞在、この間、松陰も会見し、松陰が安政の大獄に連座する端緒とも
なる。
 そして迎えた安政四年、三月末に従弟・久保清太郎が江戸より帰り、その手助
けによって講義体制も整い、七月には富永有隣を講師に加えてさらに充実、十一
月の小舎完成となるのである。
 「講孟箚記(余話)」もさることながら、「武教全書講録」「丙辰幽室文稿」
「丙辰日記」「幽室随筆」「松下村塾記」「丁已幽室文稿」「吉田語略」「討賊
始末」「外藩通略」「丁已日乗」「吉日録」等々、この間に多くの著述も残して
いる。常に勤勉な松陰であった。