吉田松陰      その35
幽囚の間に座して
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 獄中から幽囚時代にかけて松陰には重要な意義を持つ二つの論争があった。そ
の一つは獄中に始まる僧・黙霖(もくりん)とのものであり、いま一つは松陰の
「講孟箚記(さっき)」をめぐっての藩校明倫館学頭山県太華とのものである。
 僧・黙霖は文政七年(1824年)安芸国長浜に生まれ、僧侶(りょ)として
修行しながら諸国を遍歴、勤皇の志を立て討幕論を主張。十八歳のとき聴力を失
ったために筆談によって人と交わり、四十余国三千人の人を訪れたという人物。
この黙霖が安政二年九月に獄中の松陰に文通を申し入れ、二人の論争が始まった。
 そのころ松陰は、まだ幕府の存在を否定するまでには至っておらず、政策に誤
りがあれば、これを諌(いさ)めるという「諌幕論(かんばくろん)」の立場で
あった。自分は毛利家の臣であり、毛利家は天子の臣だから、自分たちが藩主に
忠勤することは天子に忠勤することであるとし、同時に「天朝には忠、幕府には
親」という姿勢で、封建社会機構における幕藩体制との調和を図っていた。
 その点、僧たちは諸侯の臣ではなく、純粋に天朝につながる意識を持ち、松陰
などの諌幕論は欺瞞(まん)であり、幕府を誅(ちゅう)する「討幕論」でなけ
れば真の忠ではないと主張する。この論争は松陰の出獄後も続き、松陰は次第に
幕府への批判を強めるなかで、討幕忠想へと目覚めていく。
 第二の「講孟箚記」をめぐるやりとりは、松陰が山県太華に批評を求めたのに
対して太華がこれを酷評、松陰がそれに対して反論を書くといったものであった
が、松陰にとっては、これもまた貴重な思想発展のための糧となった。
 この国を天朝のものとする松陰に対して、太華は領国成立の事情から諸侯のも
のという立場をとり、攘夷(じょうい)論に対しても、現在の日本には外国の武
力と戦う力はなく、戦えば江戸は焦土となり、人々は飢餓に陥って大変事となろ
うと極めて現実的な視点から批判する。
 中でも松陰の思想形成に意味をもったのは、松陰の「皇国の大体を屈して陋夷
(ろうい)の小醜に従う」という幕府の下田開港政策批判に対して、中華(中国)
思想を基とする夷狄(いてき)の差別は文化度の低い遠外の民族をいやしめた発
想であって、いま日本に来航した諸外国に対して、わが国が夷狄呼ばわりするの
は、いわれのないことだという太華の批判であった。
 この考え方は当時、浅見絅斎(けいさい)らによって主張されていた「それ天
地の外をつつみ、地往くとして天を戴かざる所なし、然れば各々其の土地風俗の
限る所、其地なり其地なりに天を戴けば、各々一分の天下にて互に尊卑貴賎の嫌
いなし」という「華夷弁別」の思想にも通じるものであり、この点については松
陰も素直に太華の言葉にうなづき、その後の理念に大きい影響をもたらすのである。
 ともあれ松陰は、ほかから学ぶことについては率直であり、それゆえに他人の
意見を肥として成長していくのである。