吉田松陰      その34
幽囚の間に座して
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 杉家幽囚室が学習の場となり、のちの松下村塾へと発展して行く過程は、極め
て自然な成り行きのようであるが、必ずしもそうではない。
 蟄(ちっ)居・幽囚の身で他人に教えるというのは、松陰の下田踏海事件に連
座して蟄居となった佐久間象山においても見られる姿で、決して稀有(けう)な
ものではない。しかし父や母や兄弟が、その講義を求めての開講という形は、や
はり異例であろう。
 しかも女性が集まって学習の会が持たれるということは封建社会の当時におい
ては、格別の発想といわねばならない。まさに今日における女性セミナーのはし
りといった感がある。
 また、集まって来る子弟の階層に全くこだわりのない松陰の姿勢も見事である。
何といっても封建社会の骨幹は、階級秩序の維持にあった。それを越えたところ
に新しい時代への学問の意義があった。
 真に学問を愛し、学問を単なる知識の集積とせず、生き方のための求道として
認識する松陰は、学問の世界における階級的差別など全く意に介していなかった。
学問を求める者にはすべて門戸を開き、純粋に人間としての資質を尊び、各自の
個性を尊重し、等しく誠実に語りかけたのである。士分と庶民出身の数が相半ば
するその門弟たちに、松陰は何ら違和感を持たなかった。
 また、松陰のもとに自らの意志で集まってきた少年たちも立派である。維新後
においてこそ、松陰門下といえば栄光の履歴としてとらえられるが、当時はかな
りの抵抗感を伴うものであったようだ。
 国禁を犯した罪人、不穏な人物の熱っぽい講義の場として、少なからず敬遠さ
れた場所であった。それは門下生であった天野清三郎が回顧して語っているように、
 「松陰先生は罪人なりとて、村塾に往(ゆ)くことを嫌う父兄多し。子弟の往
く者あれば、読書の稽古(けいこ)ならばよけれども御政事向の事を議すること
ありては済まぬぞと戒告するほどなり」
 というのが、一般的な空気であった。
 二百石取り大組士の家柄で、萩藩では上士の部類に入る高杉晋作の場合など、
足軽、中間、町人など軽輩庶民の子弟が多く集まっている所という身分的なこだ
わりと、不穏な士が寄る所という認識のもとに、松陰に近づくことを嫌う父・小
忠太の目を避けながら、最初のうちは夜ひそかに松陰の幽囚の場を訪れているの
である。そうした世間的な心の枷(かせ)を乗り越えて集まる若者たち。それは
また松陰の魅力の大きさを物語るものでもあろう。
 肉親の愛によって育(はぐく)まれた学びの場に、真に意欲を持った若者たち
が集い、松陰の幽囚室は温かく、かつ熱気ある稀有な精神的空間を作りあげてい
ったのである。われわれは、そこに教育の原点を見る。