吉田松陰      その33
幽囚の間に座して
*[2]*
 孟子の講義を続けると同時に読書会も行われた。水戸学を代表する会沢安(正
志斎)の「新論」や「経済要録」「弘道館記述義」などを父・百合之助と一緒に
読む。「日本外史」「宗名臣言行録」「下学邇言」などを兄・梅太郎と一緒に読
む。さらに安政三年の十月ごろからは、松陰の母・滝、妹・千代など、松陰が「
婦人会」と称するところの女性組も、「武家女鑑」等の講義を聞く会を開く。杉
家の幽囚室は、次第に家族と松陰の学習の場となっていった。
 やがて、杉家の人たちばかりではなく、いとこの玉木彦助ら親類の少年たちも
集まって松陰から学ぶことになる。さらにその枠は広がり、のち高杉晋作ととも
に松下村塾の双へきと言われるようになる久坂義助(玄瑞)、嘉永四年の江戸遊
学時の仲間であった中谷正亮なども加わってくる。
 門下生一覧によれば、安政三年の入門者として、前記久坂、中谷のほか、奇兵
隊総督を務め、のち裏切り者の汚名を受ける赤根武人(たけと)、松下村塾四天
王の一人で元治元年(1864年)池田屋において新撰組に襲われ自刃した吉田
栄太郎(稔麿)、松陰の肖像画を後世に残した松浦亀太郎(号松洞)などの名が
見られる。
 これが安政四年(1857年)ともなると、入門者がますます増えてくる。折
しも三月、いとこの久保清太郎(久保五郎左衛門の嗣男)が江戸から帰って来て、
講義の運営に協力するようになり、七月には松陰の尽力もあって、野山獄から解
放された富永有隣を講師として迎え、塾としての体制が整えられた。
 高杉晋作が中谷正亮の紹介で松陰のもとを訪れるようになったのも、この七月
ごろから。ちなみに、この年の入門者を見ると、伊藤利助(博文)をはじめ、維
新時に御楯隊を率いて活躍、内務大臣、逓信大臣を歴任した野村和作(靖)。高
杉晋作とともに挙兵、北越軍参謀、兵部大輔となるが、新政府に不満を抱き、萩
の乱を起こした佐世八十郎(前原一誠)。内務大臣を務め、松陰の遺志を継いで
京都に尊攘堂を建てた品川弥二郎などが名を連ねる。
 山県小輔(有朋)、松下村塾四天王の一人で禁門の変に久坂らとともに自刃し
た入江杉蔵(九一)、高杉の後を継いで奇兵隊総督となった滝弥太郎、陸海軍参
謀として五稜郭を攻め、兵部大丞、司法卿などを歴任した山田市之充(顕義・あ
きよし)などは安政五年の入門組である。
 当時、萩城下の子弟のうち、藩士の子は藩校明倫館に学び、足軽以下の庶民の
子らは、寺子屋において読み書きそろばんを習うといった封建社会における階級
性が厳然として敷かれていた。しかし、明倫館の漢籍による儒学教育にあきたり
ない士分の子、一方、読み書きそろばんだけでは満足できない庶民の子がいる。
そうした少年たちが、新鮮な学問へのあこがれを持って、松陰のもとに集まって
来たのである。