吉田松陰      その32
幽囚の間に座して
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 安政二年十二月十五日、松陰に対して藩から出獄指令が出された。理由は、松
陰のからだの具合が悪いようだから病気保養のため、父・百合之助の手元におい
て蟄居(ちっきょ)するようというものであった。
 どちらかといえば腺(せん)病質な松陰ではあったが、この時、決して具合が
悪かったわけではない。むしろ獄舎改善のため張り切っている状態であった。要
するに、出獄させるためのつくられた理由である。
 というのも、松陰が東北遊学の際、知己となった水戸藩小納戸役で藩学彰考館
総裁の豊田彦次郎らの、長州藩が松陰に対してとった処置が過酷すぎ、不当であ
るという意見が、松陰の兵学門下でもある長州藩士・赤川直次郎を通じて藩政府
に伝えられたからである。
 もともと幕府の裁断も「在所にて蟄居」というもので、藩内においても入牢を
不当とする意見もあり、当時、江戸方御用係の職にあった坪井九右衛門の尽力に
よって、出獄が実現するに至ったものである。
 それにしても藩の出した方針が容易に変えられるのでは面目も立たないところ
から、一応もっともな理由が付けられたわけである。
 ともあれ、松陰の野山獄生活も、ひとまず一年二カ月で終わった。しかし、全
くの自由になったわけではない。あくまでも外出や人との対面を禁止された幽囚
の生活が強いられているわけで、杉家の三畳半の一室が松陰の囚室に充てられる
のである。
 杉家では、もちろん一家が温かく松陰を迎えた。そればかりではない。帰宅後
一日おいた十七日の晩から早くも父・百合之助、兄・梅太郎、それに外叔父(養
家先の叔父)久保五郎左衛門の三人が、松陰の幽囚室に集まって、獄中未完に終
わった松陰の孟子の講義の続きを聞こうというのである。
 松陰は野山獄において同囚教化のためいろいろの講義を行なったが、すでに述
べた通りその中心は孟子の講話であったが、出獄によるところの時間切れで、序
説から万章上篇まで進んだところで中断となってしまった。その講義を獄囚の人
たちに代わって自分たちが聞くから続けよというのである。ここに松陰の肉親、
杉家の素晴らしさがある。
 温かく迎え、苦労をねぎらい、肉親でいたわり合うという風景は、どこにでも
見受けられるものである。しかし杉家の人々は、何が松陰の心を満たし、彼への
励ましになるかを知っていた。本質的に教師である松陰の資質を理解していたの
である。まことに深い愛情というべきであろう。
 父、兄、叔父を相手とした孟子の講義は翌安政三年六月十三日まで続けられ、
孟子全巻を終了する。この講義録をまとめたのが「講孟箚記(さっき)」、の
ち「講孟余話」と改題した、質量ともに松陰の主著とみなされる著述である。
当初用いた「箚」というのは、短い報告文や感想文、あるいは針を刺してとめ
る、とじるの意で、書物を読んだ感想を随時、書きしるした物を「箚記」とい
った。