吉田松陰      その31
野山獄中の日々に
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 獄中の松陰は、獄舎改善のみに終始していたのではない。読書家・松陰として
の本領も十分に発揮しているのである。
 安政元年(1854年)の十月二十四日、入獄と同時に書き始められた彼の「
野山獄読書記」をみると、その読書欲は、以前にも増しておう盛となり、入獄か
らその年の年末までに百六冊、年が明けての一月に三十六冊、二月が四十四冊、
三月が四十八冊といった調子で、出獄までの約一年二ヵ月の間で、実に五百五十
四冊を読破しているのである。
 その内容も、無作為に抽出してみると、「延喜式」「令義解」「日本外史」「
資治通鑑」「天保武鑑」「日本与地路全図」「藩祖実録」「海国図志」「四書集
註」「周易伝儀」「杜詩偶評」等々、あらゆる部門にわたる。
ちなみに、出獄後の安政三年をみると、「正月より六月に至る総計二百二十冊、
七月以後は毎月当(まさ)に四十七冊を以て課す。通計五百五冊」とあり、六月
の項では、
「通計十九冊、自ら此の簿を有してより以来、未曾有(みぞう)の怠情なり」と
反省している。大変な読書量といえよう。
 勤勉であったのは、読書ばかりではない。獄中における著述も、安政元年十一
月二日の「二十一回猛士説」に始まって「士規七則」「回顧録」「寃魂(えんこ
ん)慰草」「野山獄文稿」「野山獄雑著」「賞月雅草」「獄中俳諧」「清国威豊
乱記」「書物目録」「抄制度通」等で、その中の「野山雑著」にしても、「獄舎
問答」「江戸獄記」「福堂策」「儲糢(ちょきゅう・いりごめとかほしいいなど
を蓄えること)話」の四種を一冊にしたものであり、また「回顧録」にしても「
三月二十七夜の記」「投夷書」を合わせ付記したもので、この時期における著述
は、かなりの量にのぼっている。
 量もさることながら、内容の質においても、「二十一回猛士説」は、下田踏海
事件以後、二十一回猛士の別号を用いるようになった松陰が、猛の未だ遂げざる
もの尚お十八回あり、と自己を叱咤(しった)激励し、独自の境地を開いた記念
すべき一文。安政二年正月に記した「士規七則」は従弟・玉木彦介の元服に際し
て記述したもので、「約して三端と為す。曰く、『志を立てて以て万事の源と為
す。交を択(えら)びて仁義の行を輔(たす)く。書を読みて以て聖賢の訓(お
しえ)を稽(かんが)ふ』と」あり、松陰の士道観をうかがう上での好個の資料。
「寃魂慰草」は金子重輔への追悼文。また「野山雑著」の中の「福堂策」は、獄
舎を“福堂”にするために感化院的制度に改めるべきであるという、注目すべき
論策。
 このように松陰の獄中での諸著述は、彼の思想・人生観を語る中心的資料であ
り、この時期、松陰は極めて充実していた。入獄という不慮の時においてかくも
意志的に生き得たところにこそ、松陰の特質と魅力があるといえよう。