吉田松陰      その30
野山獄中の日々に
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 Education(エデュケイション)という言葉をわが国では「教育」と
訳しているが、本来、この言葉には「潜在しているものを引き出す」といった意
味が含まれている。
 松陰における教育・教化の姿勢は、まさにこの個々の資質を引き出すという言
葉がふさわしい。獄中改善の努力においても、単に講義をし、新しい知識を与え
るというだけでなく、同囚の能力を大いに発揮させようと努めている。
 例えば、儒者で書をよくする富永有隣(弥兵衛)には書道の講座を獄中に聞か
せ、また同囚の吉村善作と河野数馬が俳諧の道に通じていると知れば、松陰自ら
その指導を受け、獄中において句会を開催して親ぼくを図り、同囚の人々の心を
和ませようと努めるのである。
 そうした句会での松陰の作品も、安政二年八月十五日の記録「賞月雅章」や「
獄中俳諧」など、彼自らの筆によって知ることができる。
〇名月に香ハ珍らしき木の子かな(賞月雅章)
〇朝霧や見習(なれ)ぬ嶋の五ツ六ツ(獄中俳諧)
〇ちるとても香は留めたり園の梅(獄中俳諧)
など、もとより初歩的なものである。だが、同囚教化のために、自らも一生懸命
俳諧の道に立ち向かっている態度は、見事というほかはない。
 俳諧と言えば、同囚中ただ一人の女性、高須久子との句を通じての交情も、一
挿話として見逃せない。
 松陰が出獄する前夜、囚人一同が送別の句会を催しているが、久子はこの時、
〇鴫(しき)立ってあと淋しさの夜明けかな
という句を作っている。松陰のもう一つの号が「子義(しぎ)」であることと鳥
のシギをかけての句である。
 松陰と久子の間には、
〇四方山に友よぶ鳥も花に酔ひ(久子)
〇蝶と連れ行く春の野遊び(松陰)
という、どこかなまめかしさの漂う連句もある。そして後日、松陰に幕府からの
召還があって、江戸に向かう別離の時に、
〇手のとはぬ雲に樗(おうち・センダンの古名)の咲く日かな(久子)
〇一声をいかで忘れんほほとぎす(松陰)
という句を交わしているのである。
 古川薫氏は、これらの句に相聞歌の情をくみ取り、松陰の生涯における唯一秘
めたる恋の彩りとして「野山獄相聞抄」(のち「松陰の恋」と改題)という作品
を創作している。久子の松陰に対する思慕の情、また松陰の心情がどの程度のも
のであったかは人それぞれの受け取り方によって異論もあるところであろうが、
松陰が同囚の人々に寄せた心の絆(きずな)の深さは十分にうかがい知ることが
できる。
 そして、松陰は獄中改善ばかりでなく、出獄後、藩や親族らに働き掛け、同囚
の人々が出獄できるよう努力し、安政三年十月には七人が釈放され、残った者も
次々に出獄して行くことになるのである。