吉田松陰      その29
野山獄中の日々に
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 「甲寅(こういん)十月、余罪ありて獄に繋がる。時と余とかんへい(獄舎の
こと)に列する者、凡そ十一人なり。余詳(つまびら)かに之れを問ふに、其の
繋(つな)がるること久しき者は数十年、近き者も三、五年なり。皆曰く、『吾
が徒終(つい)に当(まさ)にここに死すべきのみ、復(ま)た天日を見る得ざ
なり』と。余乃ち嗟愕(さがく・非常に驚くこと)して泣(なみだ)下り、自ら
己れも亦其の徒たるを悲しむに暇(いとま)あらざるなり。ここに於て義を講じ
道を説き、相与(とも)に磨励(まれい)して以て天年を歿(お)へんと期す」
 これは、松陰が出獄後の安政三年(1856年)三月二十八日に記した「野山
獄囚名録叙論」冒頭の文章である。
 松陰が思いを寄せたのは、決して同志の金子重輔へだけではなかった。己の運
命を悲しむ前に、まず同囚の運命に涙するのである。そして、優しさと本質的に
教師たる資質を持つ松陰は、自分は獄に繋がれても読書など独り自ら楽しむ術(
すべ)を知っている。しかし、この人たちはそうではない。何とか、この人たち
を救いたいと思う。ここから松陰の獄舎内での教化改善、獄舎を福堂への努力が
始まるのである。
 その努力は、まず対話から始まる。松陰という青年が、情報も豊かで、なかな
かの見識を持つ人物であることを何となく感じ取った同囚の人たちからも、次第
に質問が寄せられるようになり、松陰はこれに誠実に答え、また積極的に自分の
遊学の経験や下田踏海のこと、海外事情などを話す。こうして同囚の人たちとの
問答は「同囚と口に任せて問答せし事を筆に任せて記(しるし)置」いた「獄舎
問答」(安政二年四月)の内容に見られる通り、外交問題、国防問題、民政問題
など各分野に及ぶ高度なものとなっていった。
 そうした中で、同囚の間にも自然知識欲が目覚め、やがて獄中の希望者を集め
て「孟子」の講義が始められることになる。
 この講義は、安政二年の六月十三日から始められ、松陰が出獄する同年十二月
十五日までの間、三十四回を重ね、その内容は「孟子」の序説から万章上篇(へ
ん)にまで進んでいる。ちなみに、この講義は出獄後、さらに杉家においても続
けられ、安政三年六月十三日に至って全篇を終了、その講義録を「講孟箚記(こ
うもうさつき)」としてまとめ、後に題名を「講孟余話」に改めており、松陰の
主著となっている。
 獄仲におけるこの講義に集まった者は、同囚のほぼ全員に及んだばかりでなく、
野山獄の司獄官である福川犀之助とその弟・高橋藤之進までがこれに参加、門弟
としての礼を尽くし、福川の好意によって、禁止されていた灯火の使用も許され
たという。まさに松陰の感化力の証(あかし)がそこに見られる。