吉田松陰      その27
野山獄中の日々に
*[1]*
 野山獄と岩倉獄は、萩城下の常念寺通りを挟んで向かい合っているが、野山獄
は士分を対象とした上牢(ろう)で、岩倉獄は足軽以下の小者町人を収容する下
牢と、ここにも身分による厳しい差別があった。
 もともと両獄舎は武家の屋敷で、野山氏と隣家の岩倉氏が酒席での喧嘩(けん
か)がもとで果たし合いをしたことから両家とも廃絶となり、その屋敷が獄舎と
なった。野山獄は本門を入ると左手に司獄役宅があり、竹垣で仕切られた右手に
番人詰所と、これに廊下で連なる南北二棟の獄舎が向かい合い、一棟に六室、計
十二室の独房があった。
 その一部屋は一坪半、すなわち三畳で、中は畳二枚にあと一畳分が布団など荷
物の置き場と行水・両便用の流し場。夜は廊下に灯火が点(とも)されていた。
そして松陰が入った北棟獄舎背後の位置に刑場、検視固屋が配置されている。こ
れに比べると、岩倉獄は規模が小さい。
 松陰が入牢した時、野山獄には十一人(うち女性一人)の獄囚がいたが、明ら
かな罪人としての入牢は二人、他はさまざまな理由で世に入れられず、「借牢」
という形で、軟禁状態に置かれた人々であった。
 例えば、有識の士であるが、態度が傲慢不遜(ごうまんふそん)で世間から嫌
われた富永有隣とか、夫に死別した後、武士の妻にあるまじき行状があったとい
うことで、親族から入牢を願い出された高須久子という未亡人など、罪人という
よりも、不行跡や性格から世間に嫌われ、一族の持て余し者といった人たちであ
った。それだけに、何年の刑といった期日が定まったものでなく、いったん投獄
されると終身刑のように、なかなかここから出られない。最年長の大深虎之允の
ように七十四歳、在獄実に四十九年目といった人物もいる。
 ただし、身内から「借牢願い(しゃくろうねがい)」が出され、食費、薪炭(
しんたん)費など必要な経費は、実家で負担しますという制度がとられているた
め、囚人の獄内での行動は、かなり自由であった。
 松陰の場合は他の囚人と事情を異にしており、国事犯として藩の決定で投獄さ
れたものであるが、形の上では、やはり父・杉百合之助から借牢願いを出し、食
費などは負担しなければならなかった。
 松陰を温かく迎えようとする杉家では、借牢願いによる入牢を、という藩の方
針を拒否しようとするが、再三の指示によってやむなく、実家が手狭なので野山
獄をお借し下さい、という借牢願を提出させられるのである。藩としてのこの処
置は、幕府への恐縮の意を表し、一方では大切な人材である松陰に、新たな問題
を起こさせないための配慮でもあったようだ。
 野山獄も後年、藩内抗争の日々には、政敵を投獄処刑するという血塗られた獄
舎へと変様していくのだが、松陰入獄の当時は、自由ながら社会的な意欲を失っ
た人々による懈怠(けたい)の住家であり、その中で、やがて松陰の人柄が輝き
始めるのである。