吉田松陰      その25
決然、国禁を犯す
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 松陰と金子重輔の二人は江戸に送られ、四月十五日に伝馬町の牢(ろう)につ
ながれた。その後、北町奉行所で井戸対馬守、松浦安左衛門らの取り調べを受け
るが、松陰の場合い「手当囚人」の待遇、いわば政治犯としての別格の取り扱い
を受け、取り調べに当たった幕府役人も極めて好意的で、密航計画の経緯やその
意図なども、十分に述べることもでき、ある意味で彼の心は満たされるものがあ
った。松陰は、この時を回顧して「一愉快事」とさえ言っている。
 そのような中で、松陰が心を痛めたのは、舟中の遺留品から佐久間象山らにも
累が及び、連座して投獄されたことと、身分の低い金子重輔が、松陰とは違う別
に非情な取り扱いを受けているということであった。ことに金子は、過酷な扱い
から病(腸結核といわれている)になり、奉行所の判決言い渡しの際には、もは
や横に伏したまま、これを受けるといったほどの重病人となっていた。
 その判決言い渡しが行われたのは九月十八日、松陰、重輔、象山の三人は、そ
れぞれの藩において蟄居(ちっきょ・一室に閉じ込めておくこと)、行動を支援
した鳥山新三郎は押込(おしこめ・家に閉じ込めて出入を禁ずる)、また事情を
知らずに松陰らの便宜を図ろうとした浦賀奉行組同心・吉村一郎は押込、地元の
農民・三郎兵衛は手鎖に処すという裁断が下った。国禁を犯すという大罪に対し
て、かなり寛大な判決と言えよう。
 実は、松陰たちの行動を見て、日本人の中にもしっかりした見識と勇気のある
若者がいるのだと認識を新たにしたペリーが、あまり厳しい処罰をしないように
と、幕府の役人に口添えしてくれていたのだともいう。
 松陰らは早速、国送りとなるが、藩役人・足軽など二十人余りが護送につき、
駕篭(かご)で、「網掛け愁(しま)り、腰縄」といった状態での旅である。途
中、重体の重輔は下痢がひどく、衣類が汚れると素裸にして小布団一枚を与える
といった非情な取り扱いに松陰が抗議し、自分の綿入れを脱いで重輔に与えよう
とするが、重輔は感激しながらも、これを辞退するといった一幕もあった。
 そうした苦渋の中にあってなお松陰は、人の精神を尊ぶ教育者であった。夜、
宿に着いてのひととき、苦しむ重輔をいたわり、かつ唐詩選の鑑賞や精神生活の
高貴さについて語り、励まし続けたという。
 一行が萩に帰着したのは安政元年(1854年)の十月二十四日朝、幕府の判
決が「在所に於いて蟄居申付くる」というのだから、家に引き取って蟄居させた
いという父・杉百合之助の願いも拒否され、その日のうちに、松陰は野山獄へ、
重輔は岩倉獄へ投じられた。
 ここから、松陰の生涯にとっても一つの転機となる、野山獄での生活が始まる
のである。