吉田松陰      その24
決然、国禁を犯す
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 長崎からいったん萩に帰った松陰は、萩に居ること十日ばかり、後を追って来
た熊本の宮部鼎蔵、野口直之充とともに、十一月二十四日、再び江戸に向かう。
一行は周防の富海(とのみ)から船で瀬戸内海を上り、十二月三日に大坂へ入り、
江戸に着いたのは十二月二十七日であった。
 やがて年が改まった一月十四日(安政元年)、ペリーが予告通り七隻の軍艦を
ひきいて相模湾に現れた。
 一戦を予想した松陰らの意に反して、幕府は戦いを避け、数回の会見ののち、
三月三日に米国との和親条約を締結した。この勅ヒY~r゚ない条約調印がその後“
尊攘派”を燃え上がらせることになるのでなるが、松陰もまた幕府の態度に失望
し、いよいよ海外渡航の実行を決意する。
 直ちに翌四日、藩邸において秋良敦之助に志を打ち明け、金の工面を頼むが断
られ、さらに五日には、来原良蔵、宮部鼎蔵ら一部の同志にも打ち明ける。来原
らの同志も、それはあまりにも無謀だと反対、議論となるが、松陰の決意の固さ
に結局は賛成、松陰を励ますことになる。
 この松陰の計画を知った金子重之助(重輔)という長州の若者が同行を申し出
る。金子は、もともと萩の染物屋の子であったが、江戸に出て藩邸の小者として
仕えるかたわら、熊本の永島三平を通じて松陰と知りあい、鳥山新三郎の蒼龍軒
にも出入りしていた熱血漢で、松陰もその人柄を見込んで、同行を認めることに
なる。その時、松陰二十五歳、金子重輔二十四歳であった。
 二人は瓜中万二(かのうち・まんじ=松陰)、市木公太(金子)の変名を用い、
海外への渡航を懇願した「投夷書」なる書面を用意し、三月五日、横浜に至り、
いろいろと米艦へ乗船する方策を講じるが、幕府の役船以外は一切近づけない状
況であり、漁師たちも難を恐れて船を出してくれない。そうこうしているうちに
日がたち、十三日、ぺりーの艦隊は、条約によって開港地となる下田に行ってし
まった。
 松陰たちも、直ちに下田に向かい、ここでも何度か軍艦への接近を策するが、
思うにまかせず失敗。ようやく二十七日の昼間、上陸していた士官に近づき、用
意していた「投夷書」を手渡すことができた。
 そして、その日の夕方、柿崎の海岸で漁舟を見付け、二十八日の午前二時ごろ、
満潮を利して乗り出す。だが、舟には櫓(ろ)をこぐための櫓杭(ぐい)がなく、
櫂(かい)を褌(ふんどし)や帯で縛って押しながら、どうにか沖の軍艦にたど
りつき、悪戦苦闘の末、旗艦たるポーハタン号に乗船、米国へ行きたい旨を訴え
るが、条約上、個人的な希望を聞き入れるわけにはいかないと、海岸に送り返さ
れてしまう。
 松陰の海外渡航の計画は、またも失敗に終わったのである。
*[3]*
 岸に送り返された松陰たちは夜が明けて海岸を見回り、自分らが乗って行った
小舟が流れ着いていないかと探すが見当たらない。それというのも、二人が軍艦
に乗り込もうとした時、水兵が舷側のはしごを降りて来て小舟を突き離そうとす
るので、離されてはいけないと、刀も荷物も舟に残したまま飛び移り、舟は波に
さらわれてしまった。もし、その舟が他人に見つけられると、彼らの行動の証拠
となる。しかも荷の中には佐久間象山が贈った詩などもあり、累を他に及ぼすこ
とにもなる。
 いくら探しても舟は見つからず、探し歩くうちに役人にでも見つかって捕らえ
られるにも見苦しい。事ここに至ってはやむ得ぬと、二人は地元柿崎村の名主へ
名乗り出る。
 以上の経過は、松陰が自ら「三月二十七日夜の記」で語ったものである。幕府
側の下田一件調査報告書によれば、小舟はすでに村人が発見、遺留品も役人の手
に渡ってしまっているので、間もなく役人が来るだろうから、その前に立ち去っ
てはとすすめられるが、「寅次郎共一向承引仕らず、此の期に至り逃げ隠れ候卑
怯の心底毛頭之れなく候間、其の筋へ相届け候様申す事に付き、早速下田御役所
へ申し遺わし候」ということになったようである。
 松陰はのちに獄中で記した「回顧録」の中でも、二十八日の事として「狼狽の
餘、柿崎村名主の家に往き、其の所由を陳じ、且つ善く是れを處せしむ。夜同心
某来る、相伴ひて舟に登り、下田番所に往く。与力等吾れを糺す、吾れ等悉く其
の海外に往き萬国の情形を詳審し、以て国家の為めに膺懲(ようちょう・うちこ
らすこと)の大策を立てんと欲するの意を陳ず。与力愕々(がくがく)色を失ふ。
吾れら二人声を斉うして曰く、『萬死自ら分とす、一事隠す所なし、願はくは筆
を提げて是れを記せよ』と。夜四ツ時(午後十時)、下田町柿崎村の役人に預け、
是れを長命寺に置く。巳にして吏来りて縲紲(るいせつ・縄で縛ること)を施す
」と、自らの潔さを強調するかのように記しているのである。
 その点を古川薫氏は作家の目で、松陰がそのあたりの事情をぼかして結末を潔
く作為したのは、この下田踏海の失敗を恥ずかしいものと考えていたからであろ
うと指摘し、さらに「その記述にわずかな作為を加え、後世の人々の視線を気に
しているところは、はからずも松陰の自意識が浮かび上がっている。興味深いの
は、自分の行動が、日本の歴史に残されるのだとする明確な意識のもとに、松陰
が行為しているということである。それは、たとえば革命家といわれる人たちが
共通して抱いたと思われる強烈な自意識、ある種のヒロイズムであり、使命感で
あり、それらが彼らにおける行動の源泉でもあるのだろう」と分析している。