吉田松陰      その22
歴史舞台への登場
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 佐久間象山に師事することは、今回の江戸遊学における一つの目的でもあった。
その象山との交わりは、緊迫した時局を反映して、極めて劇的な運命をたどるの
である。
 松陰が江戸に落ち着いた二日後の六月三日、米国東インド艦隊司令官マシュー
・カールブレース・ペリーの率いる四隻の軍艦が、わが国に開国を迫って来航、
浦賀沖に錨(いかり)をおろす。松陰が「癸丑(きちゅう)遊歴日録」に「船身
三十五間、備砲二十六門」と記しているように、千トンを越える大船を日本人が
見るのは初めてのことであった。
 洋学の大家をもって任ずる象山は、門弟たちを連れて直ちに浦賀に向かった。
一日遅れて情報を知った松陰もこれを追い、浦賀の現地で一行に合流し、黒船を
観察する。
 艦隊は朝夕、空砲を撃ち鳴らして威嚇、幕府は六月七日に至って七藩に対し、
江戸の海岸守備を命じた。長州藩の守備位置は大森海岸であったが、この命令に
迅速かつ見事に対処、江戸藩邸の武庫を開き、四門の火砲と百丁の和銃で武装し
た五百五十余人の藩兵を編成、その夜のうちに海岸の警備についている。
 それは、すでに太平の世になれ、武士階級が戦闘への準備から遠ざかっている
中で、長州藩が徳川幕府への対決の意識を潜在させながら、ひたすら富国強兵の
道を歩んで来た一つの成果でもあった。
 ともあれ、米国大統領の親書受け取りを拒み続けていた幕府も、ついに六月九
日にこれを受領し、ペリーは返書を受け取りに再訪する旨を言い残して、十三日
に引き揚げて行った。
 江戸に帰った松陰は、自分の身分で上書することは許されるべきものではない
と思うけれど、緊急の情勢を黙視するにたえず、あえて提出するとして、異国船
対策の意見書「将及私語(しょうきゅうしごん)」を、さらに八月には「急務条
議」を執筆し、藩に上書する。
 それらの中には、幕府の外交政策に対する批判、幕府支配の否定にもつながる
新しい国体観、藩政改善の心得、兵力充実の策などが盛り込まれているが、この
時点での松陰の攘夷(じょうい)論は、かなり柔軟なもので、進んだ文明の外圧
に対抗するには、その先進文明を自ら積極的に取り入れ、これを利用して対抗す
べきであり、むしろ彼らと接近することの必要すら考えるに至っている。
 こうした中で、松陰は次第に海外渡航への思いを募らせていく。このころ、漂
流民としてアメリカで生活し、新しい知識を身につけて帰国したジョン万次郎の
事例もあり、象山の示唆によって「漂流密航策」の実行を考える。
 折しも、長崎にロシアのプチャーチンが来航、開港の交渉中という情報を得て、
漂流と見せかけての乗船渡航を試みるべく、九月十八日、松陰は意を決して長崎
へと向かうのである。この時、象山は旅費を与え、壮行の詩を贈って松陰を励ま
している。