吉田松陰      その21
歴史舞台への登場
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 「育(はぐくみ)」というのは、長州藩(萩藩)独特の制度である。
 本来、この制度は、他人を養子とし、または養子になることで、家督とは関係
なく、これによって縁付きまたは立身などの条件をよくすることを目的とする戸
籍関係である。ある程度封建社会の身分制度を維持するため、元文四年(173
9年)には陪臣・足軽以下農民町人が諸士の育になることは、特に許可されない
限り認めないこととし、たとえ育になっても、身分は従前の通りとされた。
 しかし現実には、これを無視して、縁故のない者を親類などと偽って育とし、
身分を乱す者があったため、宝暦十二年(1762年)には、このような諸士の
育は一切禁じられたという。
 そして幕末には、時局に対応するための人材尊重、人材登用の意味あいもあっ
て、この規則が大目にみられ、育の制度の活用も行われたようで、足軽中間の身
分である伊藤俊介(博文)が、大組士(幕府における旗本的地位)という身分の
来原良蔵の育として、表舞台に活躍したことは知られるところである。
 松陰の場合に、この育の制度が用いられたことにも、人材を惜しむ藩の温情を
うかがうことができる。
 しかも、松陰の処分については、彼の才能をよく知る藩主・敬親もいたく心を
痛め、父・百合之助に内諭して、十ヶ年間の諸国遊学を願い出るように促すので
ある。このことは、十年後には復権もあり得るとの温情でもあったろうか。こう
した気風こそ、長州の若者たちが維新時において、大いに活躍し得た要因の一つ
ではなかろうか。
 藩主の内諭を受けて、松陰は年の明けた嘉永六年(1853年)一月十三日、
正式に諸国遊学の願書を差し出す。早くも十六日には許可がおり、同月二十六日、
松陰は再び遊学への旅に出るのである。
 嘉永六年といえば、やがてペリーが浦賀沖に来航し、わが国に維新の嵐(あら
し)が吹き荒れようとする大きい節目となった年であり、維新回天の種子として、
その嵐を呼び起こすがごとき死をとげた松陰にとっても、また、運命的な年であ
ったといえよう。
 松陰は、亡命から帰藩した折に名を大次郎から松次郎に改め、さらに寅次郎と
改名していたが、彼の最も親しまれている「松陰」の号も、実はこの年の前後か
ら用い始めたものという。
 松陰は江戸へ向かう途中、例によって多くの学者を歴訪しながら四国、大坂、
大和、美濃、信濃の各地を回って五月二十四日に江戸へ入るが、翌日には母の兄
で、瑞泉寺の住職となっている竹院を鎌倉に訪ね、国元の母から託された黍(き
び)の粉を届け、六月一日、ようやく江戸の蒼龍軒に落ち着く。そして松陰が教
えを求めてまず訪れたのが、かねてから師事する佐久間象山のもとであった。