吉田松陰      その20
歴史舞台への登場
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 松陰の旅はさらに続き、青森、八戸、盛岡、花巻、一関、石巻、塩釜そして三
月十八日に、伊達公の城下町・仙台に至る。その間、一関の手前では中尊寺に詣
(もう)で、仙台では養賢堂学頭・大槻格次らと交わり、養賢堂学舎も、つぶさ
に視察する。
 この地を出発したのが二十一日、小原、米沢、塩川、会津若松、田島、鹿沼と
経て、足利に足を伸ばし、室町時代以来の歴史を持つ「足利学校」を見学。その
後、利根川を舟で下って、四月五日午前十時ごろ江戸へ帰着、桶町の鳥川新三郎
宅蒼龍軒に旅装を解いた。収穫の多い約四ヶ月の東北旅行であった。
 しかし、亡命者・松陰には厳しい掟(おきて)が待っていた。彼自身は士籍を
剥奪(はくだつ)されることはもとより覚悟の上で、亡命者としてそのまま江戸
で勉学を続けるつもりであったが、藩の立場からいえば松陰は罪人であり、見逃
すわけにはいかない。
 来原良蔵ら同藩の知人、友人たちは、いったん帰藩して裁断を受けた上で再出
発すべきだと意見し、旅に同行した宮部鼎蔵も、それを勧めたこともあって、松
陰は四月十日、藩邸に入り、待罪書を差し出す。
 これに対して、藩からは直ちに国へ帰って謹慎、裁断を待てという「国元追下
し」の命が出され、松陰は四月十八日江戸を発ち、五月十二日、郷里・萩に帰着
する。
 いわば罪人としての帰国であるが、格別厳しい護送というわけではなく、中間
(ちゅうげん)二人に付き添われての道中であり、松陰としては江戸での勉学を
断念せざるを得なかったものの、どこで学ぶも同じ、郷里で一層の勉学をと、こ
とさら心を奮い立たせての旅であった。
 萩に帰った松陰は、実家・杉家で謹慎して、藩命を待った。その謹慎の日々、
彼はひたすら読書をした。東北旅行の収穫の一つに国史への開眼があり、歴史研
究の必要性を痛感していた折だけに、読書の対象は国史関係を中心としており、
七ヶ月に及ぶ待罪の期間に「日本書紀」三十巻、「続日本紀」四十巻、「日本逸
史」四十巻、「続日本後紀」二十巻、「職官志」六巻、「令義解」十巻、「三代
実録」五十巻、さらには「吉田物語」「温故私記」「日本外史」の毛利氏の部な
ど、毛利家関係の史書などを読破する。
 そして十二月九日、藩の裁断が下され、「上を憚(はばか)らず却って他国人
へ信義を立て候心底、本末顛倒(ほんまつてんとう)の儀、其の筋相立たず、重
畳(ちょうじょう)不届至極謂はれざる事に候」ということで、士籍を剥奪、世
禄を没収され、「御家人召放」の処分を言い渡され、松陰は一介の浪人となった。
だが、人材を惜しむ藩では、父・杉百合之助の「育(はぐくみ)」として、なお
藩に松陰を繋(つな)ぎとめるのである。