吉田松陰      その19
歴史舞台への登場
*[1]*
 松陰は、約束の十二月十五日よりも一日早い十四日に藩邸を亡命して水戸に向
かう。藩からの追っ手を避けての一日早い出発であったという。当時の藩制下に
おいては大変な決断であった。藩の枠を越えて、誠実なる憂国の士としての第一
歩を踏み出したのである。
 十九日に水戸についた松陰は、江戸の斎藤新太郎の紹介による剣客・永井政介
(助)の家に止宿、二十四日には宮部鼎蔵と江幡五郎(松陰の東北遊日記では安
芸五蔵)が合流し、翌年一月二十日まで水戸に滞在する。
 この地で、松陰がしばしば訪問したのは会沢安(正志斎)と豊田彦次郎(天功)
であった。会沢は、藤田東湖と並ぶ水戸学の双璧とされ、その著作で当時著名で
あった「新論」を読んで以来、松陰が深く私淑していた人物である。
 会沢はすでに七十一歳の高齢であったが、松陰は六たび彼のもとを訪れ、会沢
もまた心胸を吐露し、松陰を厚く遇した。
 一方、豊田もまた、藤田東湖、会沢安とともに水戸学派の儒者・藤田幽谷(東
湖の父)の門下で、水戸光圀以来の大事業である「大日本史」編纂(へんさん)
に従事していた歴史家で、彼との交流を通じて国の歴史を知ることの重要性に目
覚めた松陰は、また一の視野を広げていくのである。
 一月二十二日に水戸をたった三人は、陸奥路をたどって二十五日に白河の宿に
つき、ここから会津若松への途中、仇(あだ)討ちを期する江幡と別れる。
 江幡は、松陰らの助勢の申し入れを断って単身、石巻を目指したのである。江
幡はこのとき芸州人・那珂弥八と称しており、松陰の「東北遊日記」二十八日の
項には、
 「晴。断然弥八と訣(わか)れ、午前(ひるまえ)駅を発す。初め弥八とここ
にて訣るるを約すること巳に久し、期に及んで情事裁ち難く酔を買って悶(もん)
を遣(や)る、延留数日を致す所以なり。駅を出でて小坂を越え、行くこと少許
(すこしばかり)、道の左に一路あり、是れを会津道と為す。余と宮部とは将(
まさ)に会津に抵らんとし、道を此れに取る、而して弥八は則ち直行す。宮部痛
哭し、五蔵五蔵と呼ぶこと数声、余も亦鳴咽(おえつ)して言ふ能(あた)はず。
五蔵顧みずして去る。注視すること久しく、見ること得ざるに及んで去る。(以
下略)」
と、痛切な別れの情景を記している、“泣社”の呼び名の如く、志士と呼ばれた
若者たちは義憤に泣き、友情に泣いた。いわば多情多感な青年たちであったのだ。
 松陰の場合、その老成した感のある肖像画のイメージによって謹厳な教育者の
印象が強いが、彼もまた多情多感な青年であったことを見逃してはならないので
ある。
*[2]*
 松陰の旅程を追えば一月二十九日、会津若松に入り、七日後の二月六日に出発、
この地でも多くの人に会い、また藩校「日新館」を見学する。
 会津から新潟への道は雪深く、かなり行き悩むが十日に新潟に至り、江戸の斎
藤弥九郎のもとに身を寄せる。ここからさらに佐渡行きを図り、弥彦を経て出雲
崎に至るが、天候悪く、延留十三日、ようやく佐渡の小木港に着いたのが二十七
日であった。
 その間なすこともなく、里中を捜し求めて「北越雪譜」(鈴木牧之著)、「北
越奇談」(橘茂世著)、「昔語質屋庫」(瀧沢馬琴著)、「常山紀談」(湯浅常
山著)、「九州軍記」(彦城散人著)、「理斎随筆」(志賀理斎著)など数冊を
得、ようやく閑を慰めたという。
 雪国の生活習俗を描写した随筆集「北越雪譜」や武士の武功逸事などを集めた
「常山紀談」など、今日なお名著として親しまれているもので、たとえ暇つぶし
とはいっても、なかなか幅の広い読書ではないか。
 佐渡では、小木、真野、相川とたどり、この島に流された順徳天皇の山陵では
悲憤の詩を作っている。
 詩といえば、松陰はその生涯に長短合わせて約四百編の漢詩を残しており、こ
の「東北遊日記」の中にも多くの詩がみられ、彼の詩人的気質をうかがい知るこ
とができる。
 作家古川薫は「各地を行脚して志ある者と交流し、憂国の思いを述べ合う旅程
の中で、激情と旅情が渾然(こんぜん)して吐露された魂の告白ともいうべき旅
の詩が生まれた。松陰は、まさに吟遊詩人だった」と述べているが、新潟での作、
 「雪を排し来り窮(きわ)む北陸の陬(はて)/日暮れて乃(すなわ)ち海楼
に向かって投ず/寒風栗烈(りつれつ)膚を裂かんと欲す/枉是(ことさら)に
人に向って壮遊を誇る/悲しいかな男子蓬桑(ほうそう・天下を周遊せんとする
志)の志/家郷更に慈親の憂となるを/慈親子を憂うる致らざるなく/まさに算
(かぞ)ふべし今夜何(いず)れの州(くに)に在るかと/枕頭眠り驚き燈滅せ
んと欲し/涛声雷の如く夜悠々たり」
 という詩も、松陰の真情をよく示すものであろう。
 そうした松陰が佐渡から再び新潟に帰り、以後、酒田、本荘、秋田、大館、弘
前、小泊とたどって三月五日、本州北辺の龍飛崎に立って、津軽海峡を目にした
とき、彼の心をとらえたものは、海峡の詩情といったものではなかった。
 それは、海峡を傍若無人に通航する異国船への、いや、むしろそれを見過ごし
ているわが国自体への国士的な怒りであった。龍飛崎と対岸松前の白神鼻とはわ
ずかに三里、その間を恐れもなく通航する異国船に対して、わが方には何の手当
もなく、これを傍観している。一体、当局は何をしているのか。切歯する思いで
あると憤慨しているのである。