吉田松陰      その18
憂国の士への旅程
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 宮部鼎蔵と計画した東北旅行は、思わぬことから、松陰がのちに自ら用猛第一
回と呼ぶところの脱藩という非常な行動を招くことになる。
 二人の計画を知った泣社の仲間・江幡五郎が同行を申し出て来たのである。江
幡は、南部藩の内訌(ないこう=うちわもめ)の犠牲となって獄死した兄の敵を
求めて、旅立とうというのである。義に厚い二人であり、まして心許す友であっ
てみれば何ら異存はない。むしろ、その挙を励ます意味で、赤穂義士討ち入りの
十二月十五日を門出の日と決める。
 武士道を尊んで生きる当時の人々にとって“義”として語り伝えられる赤穂浪
士の行動は、極めて大きい精神的ファクターであったようだ。
 余談ながら、高杉晋作が雪の夜の功山寺に藩論統一のための決死の挙兵をした
のが、やはり十二月十五日(元治元年)であったことも、全くの偶然とは考えら
れない。赤穂義士の討ち入り、そして恩師・松陰も、またこの日に重大な決意の
行動に出たということが、高杉の心によぎらなかったとは思えない。高杉の挙兵
においてもまた十二月十五日という日は、選ばれた“外ならぬ日”であったので
はなかろうか。ともあれ、松陰らにとって十二月十五日という日は意味ある日で
あったのだ。
 しかし、不幸なことに、藩は旅行許可を出しながらも、藩邸の事務処理のうえ
で、その出発に過所手形(関所通過証)の発行が間にあわなくなったのである。
 封建社会における通常の判断でいくならば、出発を延期して過所手形を待つこ
とになるわけであるが、松陰は藩の規則よりも他藩の友人との約束を第一義に置
くのである。
 松陰は「東北遊日記」のはじめに、「心ひそかに自ら誓って曰く、『官若(も)
し充(ゆる)さずんば吾れ必ず亡命せん。ここに於て遅疑(ちぎ)せば、人必ず
長州人は優柔不断なりと曰はん。是れ国家を辱(はずかし)むるなり。亡命は国
家に負(そむ)くが如しといえども、而も其の罪は一身に止まる。之れを国家を
辱むるに比すれば損失何如ぞや』と」。と、来訪した同藩の来原良蔵に決意を語
ったことを記している。
 ここでいう国家とは、長州藩をさす。藩の規則を破ることは己個人の罪である
が、他藩の者との男の約束を破ることは、己一人にとどまらず、藩の名誉をも失
うことであるというのだ。この考え方について、作家の司馬遼太郎は、封建社会
においては、藩の倫理が優先するのに対して、松陰はこの時すでに近代的精神で
ある横の倫理に生きたのだという。
 松陰は“真の義”というものを形骸(がい)化した組織論理の中にではなく、
真に人間的なかかわりの中にみていたというべきであろうか。
 松陰は脱藩して友との約束を守る。彼自筆の履歴書控には「十二月十四日亡命」
とある。